NPO 茨城インドネシア協会 
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残された戦後,一サンギへ・タラウド諸島を訪ねて一 @ /4 青木次郎

この紀行文は、青木次郎氏と彼のスタッフが1999年1月29日から2月2日にかけて北スラウェシ州サンギヘ郡タフナ市から招待を受け、戦争中のサンギヘ憲兵隊事件の遺族会との会談を通じた交流の記録である。

サンゲル州長の招待でサンゲル島タフナ市へ行くため、メナド港へ行く。乗船する連絡船はサンタマリア号(SANTAMARIA)という約1000屯の客船で、すでに桟橋に碇泊していた。出航午後7時15分、タフナ着午前5時の予定である。

今日も波は結構大きい。船客の中に牧師が居て出航と同時に航海の安全を祈って祈りがスピーカーで各室に流れて来る。約10分間位の祈りをしている内に船は外海に出た。みんなは横になり、唯目を閉じて静かである。

Opa(青木の呼び名)が戦争中の輸送船の話をして呉れた。2段の板敷きの上にむしろを敷いて、ギュウギュウ詰めで寝ていたという。甲板には勝手に出る事は出来ない。その船に乗った兵隊は色々な20以上の部隊の集まりで、それは丁度今乗っているサンタマリア号と同じような知らない者同士の集まりで、同じようだったという。

トイレは船内だけでは間に合わず甲板にも作ってあったが、人がいっぱいでそこまで行くのが大変だったという。それも今乗っているサンタマリア号と同じ様だったとか。たしかにサンタマリア号は汚ない。

人でいっぱいで通路まで人が寝ていて動くことも出来ない。ベットの上でちっと目をつぶっていると心はすでにタイタニックである。唯無事を願うのみ、船酔い止めの薬を飲んでいるので、そんなに気持悪くはならないが、少しでも早くタフナの港に着くことを祈る。
遺族会から届いた歓迎のプログラム
1999.1,30 
6:30         遺族会の人々による歓迎会、朝食
9:00〜10:00   2世、3世及び遺族会の人々との面接、談話
10:00〜10:55  墓参り
11:00〜      会長宅に戻る
1:00〜2:00    昼食
2:00〜5:00    懇談会
5:00〜6:00     Jalam-jalanジャランジャラン(散歩)
7:00         夕食
8:00〜9:00    自由時間、遺族会会員との雑談

1999.1.30

9:00〜礼拝サンゲル州都タフナで一番大きな教会。常時礼拝には300人以上の人が集っているという。
北セレベス州知事夫妻と共に礼拝を守る。
12:00〜昼食会長宅に戻って遺族の人々と一緒に食事をする。
5:00〜サンゲルの祭りに参加。伝統的な祭りで全員民族衣装着用とのことと招待状に書かれている。了11時の予定、途中でサンゲル州長官邸での夕食パーティー
1999.2.1
7:00〜サンゲル州長と懇談(祭りが終ったのが夜半12時過ぎ、それから北セレベス州知事を見送って家に戻った。寝たのが4時過ぎだという。起きて来たのが9時過ぎだった。)
1999,2,2
サンゲル周遊、特に昔の3つの王様(全部処刑された)の子孫を訪ねる。
帰宅後遺族会の人達の送別会、昼食後新しい大きな橋の建設現場の見学。
〈サンゲル王国王様の家〉

マガニツ王国オランダ風の古い建物。博物館として残っているタフナ王国私達が泊めて貰った会長の家タラカン王国ぺ夕のパサールの近くにある船がサンゲルに着いたのは1時間くらい遅れていた。

船着場には多くの人々が出迎えに来ていて大賑わいであった。この度サンゲルを訪問したのは、私の他に通訳・案内人として、教育大学
日本語学科プログラム長のヨスと記録係として私の家に下宿しているメナド・サムウトランギ大学の日本からの留学生喜多和(キタ・マドカ)の3人である。出迎えの車に分乗、サンゲルの人たちと共に遺族会会長の家に向う。

1月30日 戦争中生れた日本人の子供・孫たちとの面談

浅川ひろえい
父は元日本陸軍人(補充兵?)(軍属?)かはっきりしない。サンゲルに居た時色々良い事:をしていたという、現地女性と結婚。子供が2人あった。兄は1993年に死亡、弟の浅川宏男(現地名コロネレス)が会に出席、現在54才、元警察官、48才で定年、父は私が生れてから3ヶ月の時に日本へ帰うて行った。

兵隊だったというがインドネシア語が達者だったというから終戦近くに現地召集されたのではないだろうか、サンゲルへは最初兄弟3人で来てカラバを集めて輸出していたが上の兄が2人とも日本へ帰っていたらしい、残ったひろおいは終戦近くまで居て召集されたか、軍属になったかで終戦で日本へ帰ったものと思う。
(添、敗戦でマナドから強制送還後、故郷の新潟へ帰ったが、戦犯容疑で巣鴨刑務所へ収監され25年間服役した)

終戦後24人の州長以下の要人を殺した日本人の子供として島民(サンゲル人)からいじめられたことはなかったかという私の質問に「サンゲルでは全然そんなことはなかった、同じサンゲル人として一緒に生活して来た。話によればトモホン地区の日本人の子供に対していじめがあった」という。

日本軍は上陸して来たのが1943年それから終戦まで居たというから、1944年は私も同じ北スラウエシにいたのである、その頃アメリカの飛行機の誘導をしている島民がいるのではないかとうわさがあった。

恐らくそんなことからサンゲルで何かがあったので取調べが行なわれ、それに対して知らないと言う事からかくしているのではないか、日本の状勢が悪くなったら反乱を起こすのではないか、という恐れから処刑が行なわれたのではないだろうかと私は推察する。

遺族会の人たちの紹介と話し合い

会長挨拶
8月から青木さんの来るのを待っていた。サンゲルにある墓、遺族会の人々と逢って貰うという事は遺族会にとっては薬になる。墓参りに行く前に遺族の一人一人を紹介します。
1.SailemMelgen   胸の所に何かある人、殺された村長の息子FvedIK
2.JulenDaman    フィルップ タイリシク
3,EdikPalosEran   ムサスエナウ ayal マロデ村長
    スタッフ      サウプルハマ MedunMe   Ambolosius(殺された)
4。エルマ   Pertama 州郡長 ayah
          レフィヌス州 おじいさん 州長
            Maepar Kotles 当時郡長(44.11.9殺される)
              Semur Adedi Taka lto(一緒に殺される)
                Harro Adyk 州長の息子(現在ジャカルタに居る)
5.名前をはっきり聞きとれなかった。
6.5の妹
7.〃
8.ADERA (シロ子)  元お父さん郡長 HertoyauopPatora    おじいさん州長
9,Minch antoni Popalan
Sebedeus Antoni
dipotony Tgi igganuari l945"
10.孫
11.AmmantoTogip嫁さん.
12.Haraanah娘さん
13,Fin
14・Frotu Manlais Mandaliea rgia 州長
15.Aeru Grefear
今日来ていない村長クローレスマランヤギン 

逮捕された人々の中で現在未だ生きている生証人の話

ADELA DAULINA MACAHECUNG (76才・女性)
日本でいう、いわゆる白っ子と呼ばれている容姿の人である。体が白いのでオランダ人だと思われていた。日本人がつけた呼名はシロ子という当時22才の娘だった。1年半の入牢、父はマガニツの王様であって戦中は郡長をしていた。

父50才、シロ子22歳の時日本軍が来てオランダの旗、ラジオを持っていないかと取調べを受けた。「持っていない」というと「かくすな」といって目かくしをさせられ、その間に海水を入れて拷問を受けた、手足は縛られていて自由はきかないようにしての拷問である。

その後2人とも牢獄に入れられた。そこには5人の女性がいた。みんなパンツー枚だけだった。そこはグムレスという所で、ずい分セクハラも受けた。

ある晩憲兵が来て、料理を作って呉れと言ったがことわると、友達はなぐられた。それはハンガリヤ人の医者の奥さんだった。そしてその後その場で強姦されるのを見た、そのハンガリヤの婦人は後で処刑された、その時シロ子の父も処刑された。

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