NPO 茨城インドネシア協会
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   ビアック戦史        序 文     
       第36師団224連隊第1中隊所属    元・遊佐町議員議長  石垣 祐治

 第36師団、通称「雪部隊」は、東北六県出身者を基幹とする部隊で編成されていた。
したがって、朴納で粘り強い東北人特有の性格を持ち、戦闘においては勇猛果敢、しかも困難に絶える強靭さを有する精鋭なる師団として軍部に認められていた。
隷属部隊として222連隊(主に岩手県出身者)、223連隊(主に秋田県出身者)、224連隊(主に山形県出身者)の3個連隊に加え、特科部隊が配属されていた。

山形県出身の渋谷惣作氏が、大部分が岩手県出身者の222連隊に配属されたのは、職業としていた大工の腕を見込まれ、工兵隊という特科部隊に配属されていたからと思われる。
そして、ニューギニア島北西部に位置するビアク島派遣となることは、運命というものであろう。
さて師団の隷属部隊であった歩兵第222連隊(連隊長・葛目直幸大佐)及び直轄部隊の一部は、「ビアク島」派遣ということになり、昭和18年12月24日、洋上において師団長の指揮を離れ、ビアク島に上陸、第2軍の指揮下に入る。
その数約一万人であった。

しかし、米軍も戦略的にも要衝にあるビアク島を黙って見てはいなかった。
大飛行場の建設に適し、日本軍陣地を攻撃できる好位置にあることに着目したマッカーサーは、日本軍上陸の約5か月後の昭和19年5月27日、ついに米軍1個師団で「ビアク島」に上陸を敢行、激しい戦闘となり、昭和19年7月2日には連隊長の葛目大佐が自決 して、終戦まで生存せる者僅か1パーセントに満たない88名、正に生き残った者は奇跡であった。
南浜のリーフの島「ビアク島」で、米軍との間に死闘を繰り広げた1万有余の日本軍将兵、その大部分が還らざる人となったが、わずかな生存者の一員として、ひっそり復員した渋谷惣作氏、戦後半世紀を経た今日、その感慨はいかばかりなものであろうか。
願わくば、今後益々長命を保たれ、平和の守護神として我らを見守られんことを切に願望する。
まえがき
日本軍がニューギニア島を、南太平洋戦域の重要拠点にすべく進攻を開始したのは、昭和17年3月頃であった。
 当時、この辺りの島々には、オランダやイギリスの部隊が僅かに駐屯していたが、日本軍は時の勢いに乗じ、戦闘を交えることなく、これら駐屯部隊をハエを追い払うように、次々と占領していった。
更に、マノクワリには二ユーギニア軍政府が設置され、民間産業団体による資源調査隊も送り込まれていた。
 日本国は、この島を南太平洋戦線の重要拠点にすべく計画していたのである。

 私が属する、当時、装備・兵の士気ともに、日本軍最強といわれた陸軍歩兵第222連隊(秘匿名・雪3523、連隊長・葛目直幸大佐)3,815名を中心とする約1万余名が、ニューギニア島北部のチェンドラワシ湾に浮かぶビアク島に増援部隊として派遣されたのは、昭和18年12月25日のことであった。
ビアク島の守備は、我々、歩兵第222連隊(秘匿名・雪3523、連隊長・葛目直幸大佐)に加えて、海軍第28根拠地隊約2千名(司令官・千田貞敏)の、計約1万2千800名で、万全の備えと大本営は判断していた。
だが、連合軍も黙ってはいなかった。

 昭和18年2月、ソロモン地域のガダルカナル島を反抗の拠点とした米軍は、まず、ブーゲンビル、ラバウルを陥落させ、昭和18年9月には、ニューギニア島フィンシュハーフィンに米軍が上陸、昭和19年3月にはポーランジアに、更に昭和19年4月にはアイタペに上陸を許し、徐々にビアク島に迫って来たのであった。
そして、昭和19年4月17日から、ポーランディアを拠点にしてビアク島に連日空爆を行った後、同年5月27日、米軍第41歩兵師団等が、数万名の兵力でビアク島上陸を敢行したのである。我々守備隊も、夜襲と突撃を繰り返し、米軍を未曾有の苦戦に陥れる健闘をしたが、米軍をはじめとする連合軍の後から後から追加支援される圧倒的物量戦の前に、全滅(80名生存、生存率0.6パーセント)したのである。

なお、葛目直幸連隊長は昭和19年7月2日自決、奇跡的に生きている我々も、殆どが負傷又は食糧不足で衰弱しており、望郷の念は強くとも撤退する術も無く、ただ情ない姿でジャングルを逃げ惑うだけの部隊となった。
後は生恥を晒すも、死ぬも運命だった。  後に記録で知ったことであるが、我々が「第四航空軍」のために造ったビアクの飛行場は、この方面の制空権確保上、極めて重要だったと見え、大本営も南方基地では唯一奪回を試みた島であった。これを「渾作戦」(こんさくせん)と称し、風雲迫るビアク島救援のため、増援部隊送り込み作戦が何度か敢行されていた。
なお、この作戦は、この後に続く「あ号作戦」(マリアナ沖海戦)と連動しており、国家の存亡をかけた極めて重要な作戦であった。
第一次・第二次作戦は失敗、そして第三次作戦は、当時の最強戦艦「大和」「武蔵」が率いる大艦隊による増援部隊の輸送作戦だった。しかし、作戦敢行中、連合軍がサイパンに上陸したとの報に、大本営はサイパン重視と判断、全艦隊をUターンさせサイパン救援を命じたのであった。
つまりビアク島、いや我々は祖国に見放なされ、あとは悲壮な絶望的状況下で、死を待つだけの部隊となったのである。

私は絶海の孤島で、極限状態に置かれた人間の行動と心理、特に生への執着、望郷の思い等を恥を忍んで赤裸々に述べるとともに、戦友・上官らの最期の様子等を、記憶の限りここに記述しておく。
戦後60年を経た今日、命長らえている者の使命と思いつつ・・・・・・・・・・
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