NPO 茨城インドネシア協会 
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軍医の見た大東亜戦争        第二部 軍医として戦地へ   福岡良男                                                              

セレベス島北部ミナハサ

  炎上中のセレベス島・北部・ミナハサのビートン港着
 入港を予定していたメナド港が、九月二日と三日のアメリカ空軍の大爆撃で破壊され、また、再び爆撃される危険があるために、病院船は、昭和十九年九月四日午前、オランダ領東インド諸島(現インドネシア)セレベス島北部ミナハサ州のピートン港沖に停泊をした。

 ビートン港は、ミナハサ州の東南部にあり、レンベ島とミナハサとの間の海峡にはさまれた良港である。戦前から、日本の鰹節の工場があり、多数の日本人が居住していた。

 しかし、ビートン港も、昭和十九年九月三日の連合軍の大爆撃によって炎上中であり、時々、不発弾が爆発し極めて危険な状態であった。
 人は一人も見かけられない。

 私ら十七名は、梱包五十個とともに、大発(大型発動機)に乗り、空襲を警戒しながら、ビートン海岸に強行上陸したが、上空にアメリカ軍の飛行機が飛行中であり、極めて危険な状態であった。直ちに、近くのヤシ林中に避難をしたが、司令部からの連絡員は来ていないので途方に暮れた。

 たまたま、一人の海軍の下士官が自転車に乗って通り掛かったので、付近に陸軍の部隊がいないかを尋ねたところ、ビートン南西方四キロメートルのギリアン村に、陸軍の隊包帯所(陸軍病院の分院)があることがわかった。

 早速、広川(松風)守軍曹と共にギリアンに行き、隊包帯所・所長の田畑富士雄軍医少尉に会い、宿泊を頼み許可された。

 途中で、超低空で飛来したアメリカ軍の双胴戦闘機に銃撃されたが、道路脇の窪みに逃げ込み避難し二人とも命が助かった。頭かくして尻かくさずであった。
 その日は、全員ギリアンの陸軍隊包帯所に宿泊をした。

  ギリアン陸軍病院分院に隔離されていた女性患者

われわれがビートン近くのギリアンの陸軍隊包帯所(田畑富士雄軍医少尉)に一泊したが、隊包帯所の暗い一室に、二十三、四才位の、一人の女性(私は韓国の女性という印象をうけた)が隔離されているのを見て、一同暗然とした気持になった。
 なぜ隊包帯所に、軍人以外の女性が入院しているのか理解できなかったが、田畑富士雄軍医少尉は、脳梅毒の元娼婦(二十三才)で入院させたと言った。

 私は、患者の年令から考えて、脳梅毒ではなく、苛酷な生活環境から欝病になった娼婦であると思った。  

久しぶりに味わった本場コーヒー味 

翌朝、当番兵の杉橋晴也衛生士等兵が砂糖入りコーヒーを飲ませてくれた。
 久しぶりの本場のコーヒーは実においしかった。どこで手に入れたか、さすがに古年兵のすることは、すごいと思った。
 いまだに、その味が忘れられない。

トモホンの第二方面軍司令部へ(昭和十九年九月五日)
 九月五日、ビートン貨物所の軍需品をトモホンの貨物所に緊急輸送をしていた西田隊(独立自動車第二九〇中隊)の緊急輸送のトラックに分乗、トモホンの第二方面軍司令部へ向かった。

 はじめは、『貴様らを乗せる自動車はない』と、西田喜一部隊長(陸軍大尉)に大声で怒鳴られたが、司令部に電話をして、便乗命令をだしてもらった結果、一台のトラックに、梱包数個と兵二〜三人が分乗することが許された。
日本製のトラックは、オーバーヒートで至る所に立往生していたが、分捕ったアメリカ製のトラック(シボレー、フォード)はオーバーヒートしないのには驚いた。

トモホンの第二方面軍司令部に到着したことを報告へ行くと、阿南惟幾第二方面軍総司令官が会ってくれた。無傷で到着をしたことを非常に喜ばれ、日本酒で無事到着を祝福してくれた。日本では味わえない日本酒での乾杯は驚きであった。
      
トモホンに到着した日の夜、宿舎として、私は民家をあてがわれ宿泊したが、兵は司令部の兵舎に宿泊した。
 民宿の夕食が大きなアンボンバナナー本であるのには驚いた。
 空襲の目標となるので、火をたき煙をだせないからという理由であった。
 民宿の主婦は、日本人の私に対して、大変に親切であり感激をした

福岡隊・タタアラン村駐留各部隊に分散配属となる(昭和十九年九月六日)

 福岡隊は、独立混成第五七旅団所属の各部隊に分散配置されることになった。
 私と木下尚長伍長、杉橋晴也上等兵は、独立歩兵第三七五大隊(IM陸軍少佐)に配属され、

その他の仲間は、衛生下士官の安富袋治君は、独立歩兵第三七三大隊(中村武次陸軍少佐)、杉田政吉軍医見習士官、
衛生兵の木村一郎、並木忠勝、伊藤正明君は、独立歩兵第三七二大隊(相良広遠陸軍少佐)、中村軍医見習士官は、独立歩兵第三七七大隊(高延隆雄陸軍少佐)、
池上章次君は、独立混成第五七旅団司令部(旅団長、遠藤新一陸軍少将)に配属された。

竹槍の衛兵
 独立歩兵第三七五大隊(IM陸軍少佐)は、タタアランという小農村の林の中で竹製の小屋に駐屯していた。  
 部隊の入口には、竹槍をもった衛兵が立っていたのに驚いた。部隊内に入ると、潜水艦の攻撃で海没し、助けられたが油にまみれになって衰弱した兵員が多く、皆、武器をもたない丸腰の兵ばかりであった。

 IM部隊長に到着を申告。無傷で来たことを喜ばれた。軍医は私以外にいなかったが、夕刻、坂方真三軍医大尉と杉山軍医見習士官が病院から退院し到着した。

坂方真三軍医大尉は、海没により衰弱はひどく、ひとりで歩くことはできなかった。
 火傷した兵隊、負傷兵、下痢をした兵が続々運ばれてきた。
 衰弱した岡崎少尉は、歩行困難で杖をつき、仲間にかかえられていた。
部隊の入りロに置いていた私のカバンがなくなってしまった。通過部隊のトラックの兵に盗られたらしい。

  軍刀をとり上げられる
 夜、IM部隊長の当番が米て、部隊長からの命令で来ましたと言い、私が内地から持ってきた将校用の上着と曹長の肩章二組(私は見習士官であるので、階級章は曹長である)、

そして私の将校用の軍刀(父に買ってもらった江戸時代の準古刀)を貸してくれと言い、海没で油にまみれた将校用軍服と、海没で錆びた将校用の軍刀を代わりに置き、持っていってしまった。

  竹兵舎での歓迎会
 その日の夜、ヤシの葉で屋根をふいた竹製の兵舎で、ヤシ油のランプのうす暗い光のもと、将校三人が集まって、私のために歓迎会を開いてくれた。
 海没しなかったのは私だけで、三人の将校は油まみれである。『軍医さん、よく無事で来てくれたね。
今晩死ぬかもしれないがしっかりやろう』と励まされた。将校の一人は星井茂信大尉であった。
 この日は戦地での第一日であり、私の長い人生の中でいまだに忘れられない一日であった。
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