NPO 茨城インドネシア協会
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飢餓道のニューギニア戦記  1
 
大東亜戦争中、最も過酷だったのは、東部ニューギニア戦で戦った将兵であった

飢えや、病気や、負傷、で苦しんだ戦場は何処も同様であるが、編者が言うのは、東部ニューギニア戦での将兵は同じく食料無く、前踏未開地のジャングル内大山脈や、凍死する山越えやで、数百キロも、1000キロも歩かされたからである。

近衛第2連隊迫撃21大隊曹長の生還者、唐澤 勲氏著 新潟日報事業社刊
『餓鬼道のニューギニア戦記』を転載する。

稿をおこすに当たり
 昭和二十一年一月二十日、私は広島県大竹港の郵便局を、打電の依頼に訪れた。栄養失調とマラリアの三日熱に加え、熱帯疥痒に右足首をやられ、厳冬の中で長袖長袴の南方の被服をまとい、見るかげも無い姿であった。
 一人の局員に新潟の自宅まで、「内地帰還、明後日実家に帰る」の電文を依頼した。しばらく女の局員は私の姿を頭から足先まで見つめ、「兵隊さん無理ですよ。その体で雪国の新潟まで帰れますか?家族の皆さんを安心させておいて、途中で死んだら一層両親を悲しませますよ。電報を打つのは簡単だけれどやめておきなさい」と親切にいってくれた。「多くの帰還兵を見てきたけれど、あなたのような人は初めてです。どこから復員して来たのですか」、との局員の問に、「ニューギニアだ」と答えると、局員はホーと絶句するばかりであった。
 それでも行ける所まで行き、少しでも故郷に近い所で死ぬなら本望じゃないかと思い、東海道本線に乗車した。どうにか東三条駅まで命が有った。早朝なのでバスも無く、十二キロの道を余力を絞って、家まで歩き続け、帰宅した。
 ところで、かつて大変お偉い肩書を持っておられた人々の、ニューギニア戦記が出版されている。拝読させていただいて感じる事は、かつての肩書が、そうさせざるを得なかったのか、われわれ軍隊の底辺でうごめいていた兵隊の実感が、伝わってこない。赤紙の補充兵として私たちの受けたニューギニア戦争と、だいぶ異なっている。これでは、南冥の土となった戦友に生還を許された者の責任は果たせまい。反面、今更心安らいでいる遺族の心を、逆撫するのか、の気もしてためらっていた。平成二年、新潟日報社で終戦四十五年戦場体験記募集に応募したところ、意外にも反響を呼んだ。この記事が発表されるや、遺族の方から、ぜひ真実の戦跡を聞かせてほしいという激励も大変多く受けた。学芸部記者・小林啓之さんにも、貴重な体験であると改めて認識させられ、ニューギニア戦を若い人たちの感覚で見つめ直していただきたいと思った次第である。
 また、恩師・片桐要一氏から、「書ける事はだれにでも書ける、書けない事を書くのが本当に書くことである」と、諭され、勇気づけられた事も、記述に踏み切った重要な要素であった。

 昭和十五年六月、一片の赤紙、臨時召集令状が私の手に届いた。予期しなかった事でもなかったので、たいした驚きもなかった。昭和十三年、世界軍縮会議において、各国とも常備兵員、軍事費の削減を申し合わせていたために、徴兵検査は甲種合格が少ない折であった。私は第一乙種合格で、兵役勤務は免れたものの、非常の際はいつでも召集の義務を課せられたので、早晩の軍役はあるものと常に覚悟はできていた。
 さて赤紙を手に取ってみると、この一枚に人生の明暗がはっきりと分けられたことが分かってきた。前途は暗かった。今まで考えていたこれからの人生の設計も、青春の希望もすべて応召により狂ってしまった。
 東京は赤坂の近衛第三連隊第一MGに入隊し、軍隊生活が始まった。地方の生活から、軍隊生活への転身はつらかった。通常近衛兵は、天皇の護衛と宮城の警備が主任務であったが、中国戦での兵力消耗と、その後の戦線拡大に伴う急速な兵員の必要に迫られ、教育隊にその任務を拡張していった。来る日も来る日も、戦闘訓練に明け暮れていた。その間、宮城守衛も十分に教育された。
 日頃聞いていた事は、近衛兵の人選は厳正なもので、教養もあり、知的水準も全国諸兵にその追従を許さぬ程で、誇り高き兵隊であることだった。しかし入隊してみると、全く裏切られてしまった。理由なき私的制裁により、暗い内務班生活が続いた。六ヵ月の兵営生活で、破廉恥な古年次兵に軍人精神をたたき込まれた。
 内務班では、「やられたらやり返す」、これが軍隊の伝統であり、これが理由なき私的制裁の原因につながっていた。第一期の検閲が終わるまで、ピンタの飛ばぬ日とて無かった。
 紀元二千六百年を祝う、日本帝国の最後となった天皇による大観兵式が、代々木練兵場で、いとも盛大に挙行された。このころから、「貴様たちも、三途の川を渡っての野戦行きが近くなった」と、ささやかれ始めた。「来年の正月は砲弾の飛んで来るところで気の毒なことだ。しかし戦地行きが決定すれば、故郷へ二泊三日ぐらいの休暇が出るから、楽しみにしていることだな……」などなど。そこへ突然連隊長から、野戦行きの命令が出た。行先も知らさず、ただそれだけだった。
 多分南方方面らしいことが支給された被服から分かってきた。古年次がいったごとく、二泊三日ぐらいの帰郷休暇が出ると思っていたが、防諜に名を借りて、赤紙の補充兵は、外泊も、家族との面会も許されなかった。
 真夜中、品川駅から広島の宇品港に向け、だれ一人見送ってくれる人も無く、東海道線に乗車した。外泊が許可されなかったのは、赤紙の補充兵ゆえに脱走を恐れてのことだった。補充兵とて一死もって国に報いる気持ちは、現役兵に勝るとも、おとるとは思っていなかった私は、上官の心理を理解することができなかった。やり場の無い憤まんを何に打ちつけたらよいのか。
 宇品港から行先不明の輸送船に押し込まれ、下船したのが中国の広東省黄浦港であった。貨車に積み変えられて、南支派遣軍岡本部隊に配属された。かくして私は迫撃第二十一大隊の戦砲中隊・佐藤中尉の第三中隊に補充交代要員として入隊したのだった。また一からの教育のやり直しで、迫撃砲の砲手としての訓練に励むかたわら、従原・北上作戦に参加したほか、数度の討伐作戦に従事した。太平洋戦争開始とともに九龍半島より香港島を砲撃、これを占領して、警備隊の一部を残し、広東の中山大学へ引き上げてきた。
 ガダルカナルの攻略に失敗しろうばいした大本営は、急ぎ南海派遣軍とし第十八軍を編成した。その主力を北辺の守りの京城の龍山の第二十師団とし、南進させた。防寒服に身を固め、スキーを履き訓練を重ねていた将兵が、一転赤道を越えた熱帯地への転用即戦力とは、果たして成り得たのであろうか?
 それに先だち、迫撃第二十一大隊は、第五十一師団とともに昭和一七年十一月、南支派遣軍としてラバウルに進出し、第八方面軍隷下第十八軍(安達二十三中将)の軍直砲兵部隊となり、ラバウル郊外・ココボに待機駐留していた。昭和一八年八月大発にて、魔のダンピール海峡を南北によこぎり、フィンシュハーヘンに悲劇の島・東部ニューギニアへの第一歩を記したのであった。
 慟哭の記録を残す前に、いささか記述の動機と筆者の前歴を記し、稿を起こす前書きとします。
 願わくば、南冥の土となった戦友の鎮魂の書とならんことを。
 第二刷版にあたりパプアニューギニア国営航空極東支社長、岩淵宣輝氏のご指導を頂きましたことを、心より厚く御礼申し上げます。

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