NPO 茨城インドネシア協会
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伯父 ニューギニア戦・貫け!反戦平和

餓鬼道ニューギニア敗走記
     今年の一月の末に、一人の軍曹がニューギニアのウエワクから帰って来た。
   彼の属する千八百名の大隊が内地を発ったのは昭和十六年の夏だった、そして今生きて帰って
   来ているのは、この三十三になる一人の軍曹だけである。軍曹は未だに神奈川県伊勢原町の
   叔父さんの家に臥せた切りでいる。
   『危ない!伏せっ』『あいつも食べるぞ!あれで飯盒に何杯になるかな』深夜の彼の寝言に
   叔父さんはゾッとするという。
   家人は忘れられない、彼が帰って来た時のことを、叔父さんの家の鶏が庭先で菜っ葉を、
   ついばんでいた、これを見た彼の表情は地嶽から這い出て来た男の顔だった。
   『人間でさえ菜っ葉一切れも食えなかったんだ!鶏の奴!鶏の奴!』そういった時は、もう彼は
   出刃で鶏の首を斬って、その斬り口から生血を啜っていた!。

蜘蛛で食糧喧嘩・飯の幻影に次々と斃る
   軍曹の話は断片的であるが『始めは南支にいました。転々と移動して、ニューギニアの
   ナッソー湾に上陸したのが、確か十九年の三月三日です。』戦いは既に我に不利であった。
   ポポイに、フンガイアに、更にアイタぺに、ホーランジアにも敵は上がって来た。
   兵隊は『神助』に一縷の望みを繋いでいた。サラモアの戦いは、この『神助』を恃んでの
   最後の戦いであり、神の助けはなかった。そして、このサラモアの戦いから日本軍の
   敗走また敗走が始まったのである。サラケット山を越えてオーライへ、このサラケット山こそ、
   正に地獄の玄関だったのだ。

   一年半の飢餓地獄。落ちのびて行く部隊に自給自足などの余裕はあるはずもなかった。
   兵隊は最早『兵隊』ではなく、てんでんばらばらの餓鬼になり果てていた。『餓鬼』を
   疫病が責め苛んだ。『米が食べたい、米を食べて死にたい』そういって、おいおいと泣いた。
   まだいくらか元気が残っている戦友がサゴ椰子の木の芯でお粥のようなものを作って食べさせた。
   『ああ米だ!』病兵は、それでもかすかな最後の微笑みを浮かべて死んで行った。
   病兵は一日に百メートルか二百メートルしか移動できなかった。ある日、身の動きもとれない
   三人の病兵が草原に寝かされた。夕方には三人とも死んでいた。死体を運び去った跡に
   三人の人間の形をした草のない所が淋しく残っていた。身体を動かせないままに、
   手に触れる限りの草を食って、せめて、もう一日を生き永らえようとしたのだった。

   兵隊は蜘蛛一匹で喧嘩をした。飢餓の世界とは、すべてのものが食べられるものに見える
   世界である。痩せ衰えた兵隊が一匹の蜘蛛にとびつき、争い掴み合う姿はこの世のものではない。
   兵隊がこんな生活をしている時に、まだ、こそこそ食べるものを隠して食っている将校達も
   おりました。軍曹は、そういう体力のある者、腕力のある者のみに生存の権利があった、
   食糧漁りには部隊長も自分で出かけなければ食うことが出来なかった。

   翌朝は、また移動という日の夕刻のことだった。部隊には二十名の重患がいた。部隊長は
   この二十名に自決を迫った。患者たちは『どうせ自分らは死にます。だが息のある間だけは、
   どうか生かしておいて下さい。』といって泣いた。部隊長は二挺の銃を置いて去った。
   翌朝、弱り果てた身体で移動してゆく兵隊たちは、この二十名の重患の戦友が思い思いの
   ところを撃って自決しているのを見た。『やがて自分たちにも同じ運命の日がやって来る』
   みんな祖国のことは、諦めていた。司令官の訓示といえば『玉砕』だけだった。
   死ぬのは嫌だ。どっちを見ても、みんな、めそめそと泣いてばかりいるような日もあった。
   軍人勅諭の奉唱をすると勅諭の代わりに上官の悪口を叫ぶ者も出てきた。
   作戦命令違反は軍法会議に掛けられ銃殺である。違反者の検挙だけは峻烈だった。
   だが検挙された兵隊は『飯を食わせろ。飯さえ食わせたら何度でも斬り込んでやる』と逆襲した。
   何時も大した処罰は受けなかった。復讐が恐しかったからである。

糧秣土産に個人感状授与
   敵の糧秣倉庫に忍び込み、二・三日も居続けて師団長に食べものを土産に持って帰った
   兵隊があった。『一に本人の沈着なる行動により』という個人感状が出た。
   その代わり作戦に絶対必要な無電機を持って来た兵隊は『こんなもの何の役に立つ!』と
   怒鳴りつけられた。気持を引き立たせるためというので演芸会をやらされたことがあった。
   虎蔵のうまいのが部隊長の悪口をうなった。芝居では兵隊が中隊長を殺して、
   それを煮て食う場面まで演じた。部隊長は一番前で苦い顔をして、それを見ていた。

   部隊長は『今に友軍機が救援に来る』と口癖のように言った。笑わせやがる、敵機ばかりだ、
   敵機はビラを撒いた。『抗戦をやめよ』と書いてあった。日本の俘虜が楽し気に撞球など
   している写真も載っていた。兵隊は俘虜になる不名誉など考えなかった。
   みんな俘虜の生活を羨しがった。逃亡兵がだんだん増えていった、生きている兵隊は不思議に
   銃だけは持っていた。身を護るためより、食糧を採るための道具と言った方が良かった。
   射撃の上手な者なら銃一挺で相当の小鳥が獲れた、だが弾丸がなかった小鳥一羽で弾丸十発、
   そんな闇商売も行われた。飢えと病気で次々と死んで行った。野戦病院のそばには、
   いつも大きな穴が掘られていた。毎日毎日が『ああ俺はまだ生きている』と
   思う一日、一日であった。西へ西への敗走、こんな兵隊でもウエワクでは、まだ戦わせられた。


終戦に叫ぶ瀕死の万歳
   不憫なのは動きのとれない病兵であった。たこ壺を掘り、みんな無理やりに、その中に
   入れられ、銃を握らせられた。これが彼らの死守すべき第一線であり墓穴でもあったのだ。
   闘いは無論敗れた。たこ壷の病兵は置いてけぼりだった。生き残った兵隊は山に隠れた。
   八月十五日『日本軍は戦闘を中止せり、抗戦をやめよ』という放送を聞いた。
   瀕死の兵隊たちに『抗戦をやめよ』とは何という皮肉な言葉だっただろう。すでに武器なく
   弾丸なく、一年半を飢餓地獄に彷徨して来た兵隊は、只、茫然としただけであった。
   九月二日、友軍から『終戦』を聞いた。『ああ、やつぱりほんとうだった』『ばんざーい』
   みんな万歳を叫んだ。ニューギニアの、苦しみ抜いた第一線において、戦争は骨と皮になった
   兵隊の、心からの万歳によって終ったのである。『五十七回目のマラリヤです。
   浦賀へ帰ってもらった金が六十円、そんなことはどうでもいい、自分は松井隆美少将の
   ことが忘れられません。この人だけは立派な方でした。全責任は自分が持つといって
   ニューギニアに残っておられます。ああ戦争はいやだ』軍曹はこう言って溜息をついた。


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