NPO 茨城インドネシア協会 
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遥かなる海の果てに  トアン、ホリウチと呼ばれた男         
  



                      
トアン、ホリウチ と呼ばれた男



   ★ わが父堀内豊秋 マナド旅行記
                  堀内一誠
              
インドネシア(蘭領東印度)における
           「堀内大佐の善政」と生涯


昭和17年1月11日に始まった旧日本軍によるインドネシア侵攻に大きくかかわり、「空の神兵」といわれた旧日本海軍横須賀鎮守府特別陸戦隊司令、ラゴワン奇襲落下傘部隊部隊長 「堀内豊秋中佐 」の「人となり」、北スラウェシにおける彼の生き様を、中佐の上司、同僚、部下の証言によりご紹介いたします。

 報道でなされなかった新事実などもあり興味を惹かれると思います。 

蘭領東インド、セレベス(現インドネシア共和国スラウェシ)その中でも北セレベスは第二次世界大戦中、東南アジアで直接連合軍との戦闘のなかった地域の一つであり、堀内中佐を中心とした日本海軍兵士たちの功績により住民の日本に対する感情は非常に良好で他の地域にないものがあります。

しかし、この地域でも全く戦渦がなかったわけではありません。しかし彼たちはそれ以上の財産を残してくれました。 多くの犠牲の上に築いてきたお互いの信頼関係を今まで以上に発展させることも必要ではないでしょうか。
そして、この北スラウェシでの戦争を歴史の中の一つの事実として後世に残すべきと考えます。

海軍大佐、堀内豊秋

明治33年(1900)熊本県に生まれる。大正11年(1922)海軍兵学校卒業(50期).海軍砲術学校に教官として在職中、かねてより痛感していた海軍体操改正の必要性を認め、自らデンマーク体操を日本人向けに改良した堀内式体操を考案。

海軍体操の全面的改良に貢献した。
昭和12年(1937)に始まった日華事変に際しては、陸戦隊指揮官として南シナの廈門(アモイ)に進駐,2年間に進駐、2年間軍政に携わり、その間現地住民の信望を一身に集め、堀内部隊交代の報が伝わると住民はこぞって、同部隊の駐留継続嘆願書を現地の最高司令官に提出した。

昭和15年部隊が同地を去るに当たり、住民は:「去思碑」と銘した配念碑を建立し大佐の徳を偲んだ。
第2次大戦では、昭和17年1月日本初の落下傘部隊隊長としてセレベス島メナド(現インドネシア領)攻略作戦に参加。自ら降下部隊の先頭に立ち活躍、成功を収め、内地帰還後、天皇陛下に異例の単独拝謁を許される栄誉を受けた。

終戦後、メナドにおける部下の過失に対する責任を問われてオランダ軍事法廷に召喚され現地弁護人の懸命の努力にも拘らず昭和23年9月25日刑死、48年の生涯を閉じた,オランダ側は刑執行に当たり、特に儀杖兵を配して軍人に対する最高の敬意を表したという。

    遺歌     月に雲花に嵐と悟り得し身は秋晴の空を待つのみ
               白菊の香りを残し死出の旅.つわものの後我は追うなり


当時の軍事裁判所、保存したい!  裁判所内部、現在は英語学校になっている。
当時の軍事裁判所の面影を残している。

堀内中佐が処刑された跡地

現在はマナド市立技術高
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