NPO 茨城インドネシア協会
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マナド、ミナハサ奮戦記                玉井三郎著

             インドネシアに魅せられた 日本兵62年間の記録
                                    
プロローグ

 人生は奇跡の連続である。その奇跡も糾う縄のように、苦しみと光明が交差している。
青井三次は二度も死の極限に遭遇し、生き延びてきた。
それだけではない、人生の色々な出来事の中にも、絶望と希望が入り混じってやってきていた。

 青井が何度も機上の人となって、このマナド(メナド)を訪れるのは、第二次大戦中、輸送船に乗ってハルマヘラ島へ向かう途中、敵潜水艦の魚雷攻撃を受け船が沈没し、海中をさまよい、助けられマナドに上陸し、北スラウェシ(北セレベス)の住民と戦時中(一年間)、捕虜時代(八ケ月)に触れ合ったことが心に焼き付いてしまっているからである。

 戦争が終り、日本に引揚げ、戦前働いていた会社に勤務した後、事業を起こし、事業に失敗し、篤志家に拾われ、働きすぎて死の病「結核」にかかってしまった。
病で死の苦しみと、どん底の貧しさを味わっている時、キリスト教と出会った。
退院後、新しく起した印刷の事業が順調に発展した。

入院中は生活保護を受け、苦しんだ時もあったが、家庭を築き家族を授かり幸せだった。
しかし、その幸せも長く続かず、癌で最愛の伴侶を失い、途方にくれた。

また、一方では青井の苦悩より以上に経済的に苦しんでいるマナドの人たちのことを知り、マナドヘ定住する決心を因め、事業を社員たちに譲った。

 マナドに知人がいた訳ではない。ただ、二年近くマナドに駐留したときの彼らの親切が忘れられなかっただけである。
闇雲にマナドヘ来て、日本語の出来る人を探した。良い人に出会った。
そこに家を建て、定住の地を見つけた。
 そして、マナド人が大勢、茨城県の大洗に出稼ぎに行っていることを知り、しかも不法滞在者の多いことを知った。

 インドネシア人はイスラム教徒・キリスト教徒を間わず、宗教心が強い。
大洗にいるマナド人は、最初、インドネシア語で説教するキリスト教の牧師がいる渋谷の教会へ通ったが、礼拝の方法が違っていたため、悩んでいた。

 青井三次は、彼らの悩みを知り、彼らの母教団であるミナハサ福音キリスト教団(グミン)の会長に相談し、その意見に従って日本キリスト教団へ相談を持ちかけた。

 大洗のマナド人たちは集会に寄り合う人数が多くなり、独自にベツレヘム教会を作った。
そして、丘の上のダンスホール、公会堂や空き工場を借りて礼拝を行った。
青井は彼らと協力して教会創設に加わり、礼拝を守った。

 その後、日本キリスト教団関東教区の牧師たちが大洗のベツレヘム教会を訪ねて行き、係わり合いを特つようになった。   
 青井三次はベツレヘム教会創立者の一人で、特別顧問として各種の問題解決に奔走した。

一番先に取り組もうとしたことは、ベツレヘム教会のインドネシア人牧師を日本語が出来る日本キリスト教団の宣教師にすることであった。
幸い東京神学大学が青井の印刷会社時代のお得意先だった。

ここには、アジア各国から牧師の勉強に来ている学生がいた。そこで、大学に問い合わせたら、日本語が出来る有資格者であればインドネシア人でも入学は可能であると言われた。

 しかし、大洗のマナド人は日本語が話せない。
また、大洗で日本語を教えることもできない。
何故なら彼らはこの地で忙しく働き、勉強する暇がないのである。

 そこで、青井はマナドに牧師のための日本語学校を作ることを目論んだ。
この背景には、更に戦時中の日本軍部によるマナド派遣「牧師」との関係が奇しくも存在していた。
 ミナハサ福音キリスト教団もマナド人に日本語を学んでもらうことを強く希望し、青井に全面的な協力関係を申し出てきた。

 このようにして、この記録は「海没」から始まり「学校開校・運営」に至るまで、糾える縄のように苦楽が続いている。
 青井は米寿を迎える歳である。しかし、まだまだ、現役で身体を張って生きている。
これもまた、人生の奇跡と言えよう。

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