NPO 茨城インドネシア協会 
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    ニューギニア大密林に死す

第一章イドレヘの転進

 その頃   ここは西部ニューギニア、ヘールビンク湾にあるヌンホル島で、戦前は教会だったこの家も、今は寺小屋で、今日も原住民の子供たちが大勢集まって、「いぬ」「いえ」と日本語の勉強が始まっている。次は私の出番だ。

昨日教えた軍歌のおさらいをするので、子供たちと一緒に土間に腰をおろしていた。
なにしろ子供たちを集めるのが大変で、タオルをやったり、飯を喰わしたりで、授業料は先生のこちら持ちになっている。 
その代わり、勉強が終わればこちらのもので、後は農園に出て働いてもらう。

原住民たちは、自分に必要なだけしか作らないのだから、こうでもしないと私たちの口には野菜一本さえ当たらないのである。
 ところで、いざ私が先生という時、一人の原住民が息をきりながら駆けこんできた。
「大変だ、モシモシトアン」 原住民の身振りはただ事でない、何かあったらしい。 
今、この島には、森中佐を守備隊長にして約二千の兵がおり、私はその中の通信隊を指揮している。
 
私の隊はここから海上八十キロのマノクワリから派遣されている。
そこでヌンホル通信隊長の私を、原住民たちはモシモシトアン、電話の旦那と呼んでいる。 原住民の知らせで私は大急ぎで帰った。兵舎の前に、衛生兵と他にも三人ばかりいる。 「さては急病人か?」 いや皆今日の炊事当番だし、忙しそうにその用意をしている。
すると原住民は、私の手を引いて、彼らのそばに置いてあるバケツを指さした。中には十匹以上もの鰻が入っていた。

 「なんだ鰻じゃないか」 と思いながら中へ手を入れようとして驚いた。数匹が首をあげ、私の指先をねらって飛びついてきた。
海蛇だ。原住民の様子がどうもおかしいと思った。 ここにはコブラのような猛毒の蛇はいないが、まむしなら日本より多い
。原住民はまむしを見てさえ飛んで逃げるのだから、海蛇を手づかみにして来たのには、びっくり仰天で、私を呼びに来たのだろう、

原住民は絶対喰わないものだ。 それにしても、よくもこんなに沢山とってきたものだ。 
「誰だ、あんなもの獲ってきたのは。喰えるのか?」 「吉野が鰻だと思って獲ったらしいけど、指を二、三ヵ所咬まれている」
 今日の炊事当番は潮干狩りで、夕食にはそのご馳走とのことだった。「咬まれた後は大丈夫か、あきれた奴だ」

 吉野兵長は一ヵ月ほど前、マノクワリから連絡に来たが、乗ってきた船は沈められ帰れずにいる。そのためかこの頃では様子がどうもおかしい。
だが変なのは、なにも彼だけでない。毎日やって来る敵の爆撃で、私たちの神経はすっかり鋭くなっている。

 昨日の爆撃の時も、防空壕へ逃げる間のなかった一人が、井戸へ飛びこみ、引き上げるのに一騒ぎしたところだ。今の私たちは皆、多少おかしくなっている。
 ところで、この日、夕食の箸をとろうとしていると、今度は兵隊が、 「隊長、緊急電報だ」 と飛びこんできた。

発信地はホーランジヤ飛行場からで、「敵、航空部隊来襲、被害甚大、貴地に向け退避中、収容の準備乞う」 宛は、各地飛行場中隊長になっている。
 「すぐ飛行場へ電話してやれ。ホーランジヤがひどく叩かれている」 私も次の電報を待つため通信所へ走ったが、次に入った「敵機延べ数千機」の電報をみて、愕然とした。少なくとも数百機の波状攻撃を受けているのだ。

この頃は豪雨つづきで、西部ニューギニアの数十の飛行場は、ホーランジヤ地区を除いて、ほとんど使えなくなっていた。
折も折、後方からは、東部ニューギニアの戦勢挽回をねらって次々に航空部隊が到着していて、それがほとんどホーランジヤ地区に集結している。 
これを知った敵の大空襲だったが、このためホーランジヤの空は敵機で蔽われ、集結の航空部隊は二百数十機の損害を受けてしまった。昭和十九年四月上旬のことだった。 

ところで、この大空襲のため、ニューギニア方面の航空戦力の差は、一層大きくなってしまった。
もう制空権は完全に敵のもので、輸送船は次々に沈められ、船舶部隊は舟艇だけになり、地上部隊も勿論各地に孤立で、連絡はただ電波によるだけになってしまった。
 その上、敵は各個撃破の戦法で次々にニューギニアの各地に上陸してきた。
このため、西部ニューギニアに布陣の我々第二軍、勢部隊も四月下旬にホーランジヤを失い、五月にワクデ、サルミ、ビヤクに敵の上陸をうけ、六月にはとうとう私のヌンホル島にも敵を迎えてしまった。

さて、次に敵の狙う所は恐らくマノクワリだろう。このマノクワリには第二軍司令部がいるのだから、敵も用心して、ニューギニア最大の火力を打ちこむに違いない。マノクワリの兵力は二万余、決して少ないものではなかった。
しかしその大半は兵器廠、貨物廠、船舶部隊などの後方部隊で、主戦闘部隊は第三十五師団の一部だけだった。

これでは装備のすぐれた敵に、とても対抗できるものでない。その上、マノクワリの食糧は、もう三ヵ月分ぐらいしかなかった。
このため、軍司令官は、とうとう兵力移動を決心し、マノクワリの兵力の半分、一万二千に、マノクワリの南方六百キロの地、イドレヘ転進を命じた。
これは昭和十九年七月2日だった。

 敵潜水艦!
 「貴隊は井上中尉に指揮せしめ、貴官すみやかに帰隊すべし」 私かこのヌンホル通信隊長交代の命令を受けたのは、隣の島ビヤクヘ敵が上陸する一週間前の五月二十日だった。もう艦砲射撃が始まっていた。 「連隊長はこんな時に、無事で帰れると思っているのか?」 今頃、満足な船のあるはずがない、残っているのは上陸用舟艇と漁船が五、六隻、しかしこれは守備隊の虎の子だ。他にもあるが、どれも銃撃で孔があいている。
船舶兵だって、陸に上がったままで、他の隊の応援をやっている。なお悪いことに、マノクワリまでの海上は、昼は飛行機、夜は水雷艇や潜水艦で、敵さん我がもの顔で横行している。こんな物騒な海を、焼玉エンジンの漁船で八時間、これじゃ、誰だって尻込みする。

それでもやっと船舶隊を口説いて船を出してもらうことにした。とにかく帰らねばならない、命令だ、一か八かだ。後は運にまかせる。
だから乗組員もマノクワリの船舶兵で、このヌンホルに来たとたん船をやられ、帰れずにいた者ばかりだった。『 早速、孔の少ない、底の浅い船を選んだ。これなら魚雷攻撃をうけても当たりっこない、船の下を通りすぎてくれる。

取りはずしていた機関銃も用意した。そして甲板には、空のドラム維を二つずつ縛リ合わせて積みこんだ。
船がやられた時の用意だ。爆雷も手に入れた。「こんな物を使う時は、最後だな」
 「しかし必ず水雷艇か潜水艦にぶつかることを覚悟しなくちや」
 乗船者は、船舶兵四名と私、それに私の当番兵と少し気が変になっている衛生兵の七名。
ラッキーセブンを祈りながら船に乗った。

 出発は曇天の夜を選んだので、まったくの闇夜だ。私たちは機関銃座についたまま、交代交代で見張りをつづけた。時々、遠雷のような艦砲射撃の響きが、・ビヤク島から聞こえてくる。
 ところが、この海が大変な夜光虫だ。
 「これじや敵さんに見つかり易いなー」
 「だから、こちらだって見つけ易い。何しろ相手の方が大きいのだから、先に見つけて逃げ
ることだ」
 どこまで行っても夜光虫が多い。舟の後ろにその光が二、三十メートルも尾を引いている。
前で誰かが舟べりから小便をやっている、それまでが細長い線を引いて光っている。まったくひやひやする。
 この夜光虫とエンジンの音を気にしながら、全員の目を闇の海上に向けたまま、私たちは一直線にマノクワリを目ざした。そして三時頃だった。

「右前方に潜望鏡」
 と一人が叫んだ。とうとう出た!
 「どこだ、全速、潜望鏡めがけて突っこめ」
 潜水艦に浮きあがられては、こちらの負け。それまでに潜望鏡をへし折り爆雷を投げこんで逃げるのだ。
 「爆雷用意」
 もラ潜望鏡は船首のかげに入った……。
 おかしい? 潜望鏡のショックがない。はずれたか? それとも敵さん深度を下げたか?・
 「爆雷投下」
 これでも浮き上がってくれば、機関銃で応戦しながら逃げる。
 ところが、投げこんだ爆雷の爆発のおそいこと!
 確かに潜望鏡だった。それが細長い夜光虫の尾を引いて走っていた。その前方を、全速で斜めに切って走ってきた。潜望鏡との衝突に失敗した上に爆雷も不発か、と思っていると、
 「トーン」
 船底を叩きあげられたような響きだ、爆雷だ! 百メートルぐらい後ろで、夜光虫が海面に大きな楕円を画いてもり上がった。夜のことだから、もっと離れていたのかもしれない。
 これで潜水艦もびっくり、海底にしがみついていることだろう、さあ逃げるんだ。
 それからマノクワリまで、夜の白むまでの長かったこと。見張りに立ったり、機関室の水を汲み出したりしながらも、私の拳銃は安全装置をはずしたままだった。

どこから敵が現われるかわからない。負傷で応戦できなくなれば自決と覚悟をきめていた。
 だが幸運にも私たちは、この最後の船で、無事ヌンホルを脱出することができた。
敵さんだって、漁船では魚雷はきかないし、浮き上がってまでやっつける相手でない、と見逃がしてくれたのかもしれないが、要するに運がよかったのだ。
 そして今度は、電信第二十四連隊副官として、七月一日、イドレヘの転進命令をうけた。
 
連隊本部から四キロばかりの所に、オランダ住宅の跡がある。前はマノクワリ湾を眼下にした絶景で、後ろはジャングルの深い谷になっている。
今、ここの崖に通信所を移転させる予定で、横穴をつくっている。 作業隊長は、先輩の伊藤大尉で、私はそこへ、この転進命令を伝えに行った。

 「伊藤さん、穴掘りは中止だ」 ちょうど昼食の後で、伊藤大尉は裸であぐら、ナイフを手に妻楊子を作っていた。食糧も節約の時だ、武士は喰わねど高楊子の用意かもしれない。 
「軍司令部から、転進に決まったから、通信所の作業も中止するように言ってきた」 「転進? ほんとうか、君の私物命令だろう」 

この頃では、連日連夜、敵の上陸を想定して、全部隊の合同演習を続けている。伊藤大尉の疑うのも当然だ。 
「軍命令だよ、ほんとうだ」 「まさか一パイ喰わすのじゃないだろうな。で、転進はソロンか」 ところで、私の部隊の連隊長だが、半月ほど前からニューギニア西端のソロンヘ行ってそのままになっている。
当時は、ソロンヘの転進の案も出ていたので、その準備のつもりだったのだろう。 
そのため、連隊長代理は、無線中隊長の吉森大尉がつとめ、全員が私同様の予備将校ばかりだが、マレー作戦やガダルカナル作戦にも参加した戦歴をもった猛者が、ずらり並んで留守をしている。
「馬鹿にしている、一体何のために、こんなに沢山の穴を掘らしたんだ」 彼はプンプン言いながらも、すぐに作業を中止させ、作業隊の引き上げ準備を始めさせた。私は、伊藤大尉の帰り支度を待つ間、天幕を出て、すぐ近くのオランダ住宅の跡へいった。

マノクワリは、オランダ総督のいた所で、オランダ人は原住民くさいマノクワリの町から離れて、
この高台に住宅街をつくっていた。それも今は、すっかり爆撃でやられ、一軒の家も残っていない。蔓のしげった門柱が一本立っている。
そこを入ると、赤い瓦やクリーム色の鎧戸、コバルト色の柱も散らばっているし、バスルームの跡も残っていた。 
二年前までは、この緑の台地に、赤い屋根やクリーム色の建物が美しく調和して並び、垣根にはブーゲンビリヤの桃色の花が、庭にはカンナの真っ赤な花が、生い繁った緑の中に咲き乱れていたのだろう。もちろんオランダ人に必要なだけのコーヒー園も、ココア園もあった。牧場の跡もある。だが、その人たちは今、どこにいるのだろう。

 ヨーロッパ全土が戦場になっている時だ、とても本国には帰っていないだろう。ジャワ、スマトラのオランダ領だって日本軍に占領されている。戦火を避けようにも、その土地さえない人たちだが?・
 庭の片隅に、雨ざらしになって、乳母車が草に埋まっていた。これに乗っていた子供たちは一体どこへ逃げたのだろうか。
 しかし今度は、こちらが逃げる番になってしまった。 私の部隊は、昭和十八年の末、このニューギニア作戦の部隊に入った。
だが、ここへ上陸するまでに、第二中隊は全員海没の損害をうけている。マノクワリに上陸したのは、十九年一月九日で、東部ニューギニアでは、グンビ岬に敵の上陸をうけ、ビルマではインパール作戦開始の頃だった。 

その頃でさえマノクワリには、もうどこにも街の姿がなかった。もちろん電灯もないので、上陸の時からランプの生活をつづけている。上陸後の私たちは、サルミ以西の西部ニューギニア各地に展開して通信に当たっており、マノクワリには、部隊本部と有線、無線の半個中隊、それに器材中隊だけだった。 

夕方になって、軍司令部から、転進の細かい指示がきた。それで私の部隊は、ここに有線中隊を残し、ほかは、陸路と水路にわかれて転進することになった。
そして水路は、吉森大尉らの約五十名。陸路は、伊藤大尉を長にして、私と上村主計大尉、朝倉中尉、小張軍医中尉ら百四十八名だった。

 転進地はイドレ、地名も初めてきく所で、私たちは早速地図をひろげ、そのイドレを探した。  
イドレヘの陸路は、一本の道もないジャングルだ。これでは、磁石と地図を頼りに、海岸線と河を目標に歩くほかない。
順調に行けても1ヵ月かかる。水路なら二日で十分だが、船は全部沈められ、残っているのは上陸用舟艇と漁船だけ。
この中から私の部隊に配属になったのは三隻で、しかも漁船だった。これでは、書類と通信器材を最少限にしても、五十名乗るのがやっとだ。 
その上、空には敵機、海にも水雷艇が出ている。この中を転進するのだから危険千万で、いずれにしても相当の被害を覚悟しなければならない。

 何しろ私の部隊は、ニューギニアに来るまでは、仏印(ベトナム)、タイ、マレー、シンガポールの各地にいたのだから、マノクワリー番の財閥で、隊貨は驚くほどである。
その中には、電気もないのに電気冷蔵庫や扇風機まである。これには、ランプ生活の軍司令官をあきれさせたものだ。 
だが今度は、この膨大な隊貨の処分が出発を前に大変な悩みになってきた。 「どうだ、少しは片づいたか」 上村主計大尉が回ってきた。

「このとおりだ、焼却の暗号書だけでもまだ一日分ある。上村さんのところは?」 「俺も倉庫を早く整理したいのだけど、皆の胃袋が心配だ。
食い過ぎで行軍前に倒れてみろ、小張軍医から怒られる。どうも炊事の飯をとりに来ないと思ったら、どこでも、こちら顔負けのご馳走ばかりだ」 

それもそのはずで、私の部隊では、サイゴンで二年間分の食糧を買いこんできている。それを上村主計、節約々々とけちっていて、今になって、
それ酒にビール、煙草に塩豆。それバターだ、缶詰だ、サイダーに菓子。次は砂糖に小豆だと、一度に渡している。
 だから最後のお手並みを発揮して、おはぎをつくる者、一升瓶を横に書類の整理をしている者、また一杯気嫌のねじり鉢巻で、 「戦友の墓を立てなおしておく」 と丸太を削っている者もある。
 転進準備、特に隊貨の整理はなかなかだった。自動車や通信器材、食糧、被服、それに私物を入れると二千トン近い隊貨である。
これを漁船、三ばい分の三十梱包ぐらいにしなければならない。 いらない物は、引きとってくれる隊を探さねばならない。
この整理の混乱は想像以上で、後をよろしく、と残留者に頼むより仕方なかった。 

携行の食糧は十五日分で、途中のムミで、それから先の十日分の食糧を受けることになった。
ところが、背嚢はこの十五日分の食糧で1ぱいになってしまう。仕方がないから私物はほとんど捨てることにした。
だが物欲という奴は、そう簡単に片づくものでない。 「チエ!・ せっかく除隊用に作ったのに!・」 と背広に、せめて一度でも、と手を通している者もあれば、持てる所まで、と布地をボストンに押しこんでいる者もある。 

上村主計の蔵ざらえのおかげで、昨日までに比べると、見違えるほど皆の服装がきれいになった。これで内地へ帰るのだったら申し分ないのだが、目的地は日本とは正反対のイドレである。 私か内地を出る時は、こんな大戦争になるとは夢にも思わなかったし、また、こんなニューギニアヘなど考えてもみなかった。私の南方への出陣は、十六年十一月八日で、南方総軍司令部通信隊長だった。

そして、この南方総軍の動員計画を見て驚いた。将官十一名、参謀二十四名もいる司令部で、総司令官は寺内寿一大将だった。
編成内容は、当時最大と言われた関東軍以上である。だが、この時はまだ総軍の隷下部隊はもちろん、司令部の位置さえも私は知らなかった。
それが、宇品を出港して、南支の広東へ進路をとっていた十一月二十二日、急に航路を仏印のサイゴンヘ変えた。
 その時、「南方総軍の任務を述べる」と高級副官が立った。総軍司令部の各部高級将校、各隊長会議の席上だった。
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