NPO 茨城インドネシア協会
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地獄の日本兵

はじめに
 映画「硫黄島からの手紙」を、私は封切り後間もなく劇場へ観に行きました。 
親友たちは、硫黄島からさほど遠くないサイパン島で玉砕しています。だから私は特別に深い感慨をもって映画を観ました。恥ずかしいくらい涙が出ました。
 この映画に限らず、片道燃料だけで敵艦隊に突っ込んだ特攻隊や戦艦大和の最後を思うたびに、今でも涙を抑えることができません。 兵士は死を覚悟して戦場におもむきます。それはある意味で、致し方ありません。
戦争とはそういうものです。その極限にあるのが、特攻隊です。若い操縦士が己の命とひきかえに敵艦に体当たりするのですから、悲壮というほかありません。だからみんな涙するのです。
小泉元首相も、特攻隊基地のあった鹿児島県南九州市知覧町の知覧特攻平和会館で、遺品を前にして涙をこぼしたといいます。

 しかし、と私は思うのです。多くの人が忘れてしまったこと、知らないことがある、と。太平洋戦争中の戦死者数で最も多い死者は、敵と撃ち合って死んだ兵士ではなく、日本から遠く離れた戦地で置き去りにされ、飢え死にするしかなかった兵士たちなのです。 その無念がどれほどのものであったか、想像できるでしょうか。

それは、映画やテレビドラマで映像化されている悲壮感とはおよそ無縁です。これほど無残でおぞましい死はありません。しかも、そのような兵士の最期は、ある局部的な戦場の出来事ではありません。二百数十万人に達する死者の最大多数は、飢えと疲労に、マラリアなどの伝染病を併発して行き倒れた兵士なのです。

 平成十八年八月、私は長いこと胸にあった思いを、小論にまとめて朝日新聞の「私の視点」欄に寄稿しました。靖国神社のA級戦犯の合祀と総理大臣の靖国神社参拝の是非をめぐって、国内外で議論が沸騰していた時期です。

また、昭和天皇のA級戦犯靖国合祀に関する発言を記したメモが発見されたという報道でも、注目が集まっていました。 その文章には、次のようなことを書きました。 「戦死した兵士の遺族たちは、最愛の肉親が野たれ死にしたとは思いたくない。それは人間としての人情なのである。誰も非難できない。

小泉元首相も素朴な情念のおもむくままに正しいと思って靖国参拝を行ってきたに違いない。
その心情は多くの国民、とりわけ遺族たちの心の琴線に触れるものがある。だがそこからは、あれだけの兵士を無意味な死に追いやった戦争発起と戦争指導上の責任の所在は浮かび上がってこない。
『英霊』という語感の中に見事に雲散霧消してしまっている」 この寄稿は意外なほど多くの反響を呼びました。手紙や来訪者が数多くあり、講演も頼まれました。そこで太平洋戦争の最大の死亡理由は餓死だったと話をしたところ、異口同音に驚きの声が挙がりました。

 「初めて聞きました。本当ですか?」 「ガダルカナルでは沢山の餓死者がでたそうですね」 感想は様々でしたが、百万人を超える兵士が飢えて死んだとは、ほとんどの日本人は知らないはずです。ただ、等しく国家のために勇戦敢闘し、尊い命を捧げた殉国の英霊として祀られているからです。

 確かに名誉の戦死をした兵士は沢山います。私のかたわらで撃たれて死んだ兵士も、何人もいます。サイパン島で玉砕した友人たちもそうです。出征前、彼らと一緒に撮た写真は、いつも私の書斎に掲げてあります。 しかし、最大多数の兵士は、飢えと疲労と病で死んだ、というのが厳然たる事実です。

そうした状況は太平洋戦域のいたるところで、戦いが始まって間もないころから戦後にいたるまで、繰り返し発生しました。 その典型的な戦場だったのがニューギニアでした。 ニューギニア島は日本から南に約五千キロ、オーストラリアのすぐ北にある大きな島です。東西は二千四百キロにわたり、面積は日本のおよそ二倍の広さがあります。

全体は熱帯雨林に覆われ、現在は東側がパプアニューギニア、西側がインドネシアの一部になっています。 戦争中私は、その島にいました。昭和十八年、十九歳だった私は志願して海軍の民政府調査局員に採用され、ニューギニアに上陸しました。戦況が厳しくなってからは、陸軍作戦部隊に情報要員として配属され、戦闘にも参加しています。

 昼間でも太陽の光が届かない原生林のなかで、幾度もあわやという危機に直面しながら、私はかろうじて終戦を迎えることができました。しかし、進駐してきたオランダ軍にBC級戦犯容疑者として逮捕され、重労働二十年の刑を受けました。 いま私は、八十代の半ばを過ぎています。
もう余命いくばくもないどころではありません。それだけに、ニューギニア島での戦場の実態をきちんと残しておきたいという思いが募るばかりです。 きわめて荷の重い仕事です。

ですが、野垂れ死にした兵士たちはそれぞれ未来に夢を抱いていた若者でした。彼らの無念の思いを、私は代弁しなければなりません。
それを伝え得る、私は多分最後の一人だからです。 ただし前述の通り、ニューギニアは非常に広い島であり、私自身が直接体験したことはその一部に過ぎません。いや、この島での戦争をすべて体験した日本人などいません。それはこのあとの話を読んでいただければおわかりになります。
 本書では、私の見聞だけでなく、遺された資料に頼りました。生き残った兵士の多くはすでに物故していますが、彼らはこれだけは伝えておきたい、としたためた手記の類いを残しています。

 私は国会図書館に通い、埋もれていた膨大な資料に目を通しました。
選び出した手記を、旧日本車の職業軍人たちが執筆した『戦史叢書』などに収められている戦闘経過の記録と照らし合わせたのです。そうすることで、二十万以上の兵士が上陸したあの島の三年間の戦火の流れと戦場の光景を、再現しようと試みました。

 断片的な事実と事実、局地的な現象と現象を網羅することで、あの場所にいた私ですら知らなかった多くの凄惨な事実を、あらためて知ることができました。何度パソコンのキーボードを打つ手を置いて、反吐の出そうな思いを抑えたことでしょう。想像し得るかぎりの地獄絵図を、はるかに超える実態が明らかになって浮かび上がってきたのです。

 ニューギニアの戦場の実態を知ることは、日本軍が配置されていた太平洋の島々、フィリピンなどの戦場、ひいては太平洋戦域全体で兵士たちがどのような死に方を強いられたかを考えることに繋がるでしょう。一見平和で豊かな日本で晩年を迎えている私が、最後の力をふりしぼって、なぜ違い過去のおどろおどろしい事実を掘り起こそうとしているのか、ご理解頂けるでしょうか。 
戦記『ガダルカナル』を執筆した五味川純平は、その著の最後に書き残しています。 「過去が現在に関係がなければ、歴史も戦史も、その醜いはらわたを暴く必要はないのである」 私はこの言葉に深く共感しながら、作業を進めています。飢えと疲労と病に冒され、むなしく密林に行き倒れた兵士たちも、無明の闇の彼方からそのことを切望していると確信しています。

※引用している手記などには、現地人などに対しての差別的表現などがありますが、 当時の認識を示す歴史的資料なので、手を加えずに紹介したことをご了解頂きたい。
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