NPO 茨城インドネシア協会
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地獄の戦場  ニューギニア戦記  1
                                間嶋 満
  一、プロローグ
ブソ河を渡河した先頭部隊は縦一列でつづき、すでに樹海の平地から巨木の繁る山岳地帯
に分け入っていた。大勢の兵隊が歩くと、深い雑草も倒れ、雑木林の中に一人が通れるほど
のトンネルができていた。
 苦しいのは第一梯団である。先頭であるがゆえに道なき茂みを、軍刀や剣で切りはらいな
がら進むのだ。もちろん地図はない。太陽と磁石と勘だけがたよりである。
 二人並んでは歩けない一列だけの道である。先頭兵から最後尾兵の距離といえば、一万メ
ートル、いや二万メートルにもなっているかもしれない。だが、後続兵は雑草が倒れて自然
にできた道を伝って歩けば、前者を見失い、少々遅れることがあっても、まず間違いなく目
的地に着けるものと思われた。
 しかし、一日、二日と過ぎ、だんだん山が深くなってきた。爪先登りの急坂に、疲れて足
が前に出ない。
 しだいに登りも緩慢になってはいったが、前が止まれば後続も止まる。止まると、その場
所で崩れるように転がるだけである。日ましに加わる息切れと、鉛の靴でも履いたようで足
が重い。
 すでに全身に疲労が重なりはじめていた。くわえて、乾ききった山中である。谷川の水も
枯れ、一滴の水も口にすることのできない緑の砂漠であった。東部ニューギニアに上陸して
以来、爆撃に追われる毎日で、洗濯する機会さえもなかった。一度も脱いだことのない服と
靴である。服の襟は垢に汚れ、黒く濡れたように光っていた。
 風呂も水浴もない。体は風に食われ、熱帯潰瘍にかかっていた。化膿の痛みも、しだいに
激痛に変わりはじめていたのである。薬もなければ、紙一枚すらない現状で、手当の方法も
なかった。
 服は風の巣窟となって、汗と汚れで腐りはじめていた。生きるには厳しい試練であった。
青息吐息の敗残軍が、昼も暗い密林を這うようにして登る。見るにたえない大日本帝国軍人
のなれの果てである。
 この撤退で、我慢の限界を知ったのは私だけではない。それは体力と気力のつづく限り苦
しみにたえ抜き、訪れる死の隙間が、その限界であることを知ったのである。昼は杖で身を
支えて登る。夕暮れになると、精も根もつきはて道端で眠る。
来る日も来る日も、水のない日がっづいていた。炊飯のできない行兵は、煎米にして空腹
をしのいだ。だが、その煎米も、乾いた喉にはしだいに通らなくなり、疲労はその極に達し
てきたのである。
 私かニューギュアに上陸して、はじめてこの山中で竹を発見した。昭和十三年に台湾で見
たことのある竹と同じもので、一ヵ所の根っ子から五十本ほどが群生していた。節々でくの
字に曲がった変な竹であった。
 子供のころ、竹馬、竹トンボなど竹玩具を作るため、山に行って竹を切っていた記憶がよ
みがえった。幼いころの記憶のなかで、わずかながらも竹の中に水のあることを知っていた
のだ。竹を切り、節を抜いてみると、少ないがやはり水はあった。少し甘味のある竹臭い水
である。
 焼ける喉には助けの水であった。しかし、またも水のない日がつづいた。水!・ 水がほし
い!・ 切羽つまった焦燥のなかで、突然にして夜の雨が降ってきたのだ。
 「ああ! 慈雨だ!」
 将兵は飯盆と水筒で雨をうけ、かろうじて脱水の危機を救われた。それにしても、豪雨は
一夜降りつづいた。雨外套以外に何もない。現実は厳しく、天幕も雨宿りする場所もないの
だ。巨本の根っ子に寄り、雨に叩かれて眠るほかに方法がなかった。どうでもなれという開
きなおった感じで、背負袋を枕に眠りについた。
だが、疲れているといっても、直接、雨に顔を叩かれると眠れないものだ。上衣を脱ぎ、
頭にかぶせて眠りにつく。
 山の傾斜を勢いよく流れる雨水が、背中を洗って通りすぎている。あきらめと疲労は、睡
眠薬と同様の効果があるのか、愚痴を忘れた将兵は、土砂降りのなかで死んだように眠って
いた。
 はかなくも、夢の中が束の間の極楽であり、目が覚めてみると、そこは地獄の真っただ中
である。ブソ河を渡って一週間が過ぎたばかりである。それなのにもう長い期間、山中をさ
まよい歩いたように思えていた。
 だが、まだまだ苦難の撤退は、はじまったばかりであった。
 見れば、兵隊たちは疲れに疲れていた。若さを失い、老人のように萎縮した顔ばかりであ
る。すでに銃をすて、杖にかえた兵が目立ちはじめていた。その上、各梯団の隊列も乱れ、
逐次、取り残される将兵の姿が目についていた。軍隊でいう落伍者である。
 十日間も過ぎ、海抜一千五百メートルと思われる山岳地帯に入っていた。第一梯団である
海軍陸戦隊にまじって、陸軍将兵の餓死体が点々と見られるようになっていた。すでに、食
糧も尽きていたのだ。
 飢えと崖のある急坂−−これに絶望した兵が、生きる苦しみにたえられず、道から入り込
んだ深い雑草の中を死に場所に選んで自決した。
突然の爆発音に、一瞬、ぎくりとして道行く兵隊が立ち止まる。だが、何事もなかったよ
うな無表情な顔で通りすぎていく。自殺か、と心の中で思うだけである。
 他人の死に介入できない理由なり事情があった。弱い人間は助からないという観念的なも
のが生まれていたのである。物資の点でも、体力的にも、たとえばこれが肉親であっても、
救ってやれる能力のないことを、だれもが知っていたからである。
 独立工兵第三十連隊第一中隊長古藤新一郎大尉も動けなくなり、水のない雑木の茂る谷間
で、死を待っていた。中隊長のかたわらで若い当番兵が残っている。中隊長と運命をともに
するとのことであった。
 通り合わせた部隊長などが、当番兵にその行為はしょせん無駄であると説得した、なにし
ろ、急坂と密林で行く先は遠く、救助の方法はなかったからである。
 当番兵は部隊長たちに合流して、その場を去ることにした。後ろ髪をひかれ、捨て去る者
また捨て去られる者、ともにその悲しい心境を、筆先で表現することは至難の業である。
 古藤大尉は、大阪府三島郡高槻町といっていた当時、召集前は町会議員をしていた人で、
軍隊ではまず年寄りの部類に属したのである。この撤退行で、独立工兵第三十連隊として最
初の犠牲者が古藤大尉であった。
 明けても暮れても、毎日が胸突く急坂との戦いである。やがて、一日一日と日時が経過す
るにしたがい、各梯団の隊列は乱れていた。すでに命令もなければ、軍隊としての秩序もな
い。階級で維持していた統制もくずれ、個人行動に移っていたのである。食糧と体力のある
将兵は前に進む。だが、飢えと病気で落伍する将兵は、静かに死を待つだけであった。師団
八千の将兵が、入り乱れて先へ先へと急いでいるのだ。
 戦友愛!・ 地獄でそんな奇麗ごとが通用するものではない。人間性をうしないかけた集団
である。「衣食足りて礼節を知る」とはよくいったものである。
 上官も部下もなかった。草の根をかじってでも、食糧の調達は自分でやるという鉄則が、
必然的に行なわれていた。頼りになるのは、自分自身の体力と才覚だけであった。まず仏心
を出し、戦友を助けてやるには食糧が必要である。遺体を葬ってやるにも、この痩せ衰えた
体力には土を掘る余裕もなかった。
 すべての将兵に共通していえることは、飢えと疲労の極限が近いことであった。他人の面
倒をみるどころではなかった。明日がわからぬ自分の運命であった。登れば登るほどに、死
体の数も多くなっていた。
 私はサラモアを撤退する十日ほど前から、急激に襲ってくる悪寒と四十度も高熱の出るマ
ラリア熱帯熱に悩まされていたのである。その熱のため、食事も喉を通らなかった。心配し
た初年兵の大海治夫一等兵が、終始、私につき添い、二人だけで行動をともにしてきたので
ある。
 運よくブソ河を渡ってからは熱もでなくなり、二人で約三千メートルもある巨峰の頂上に
達していた。これこそまさに奇跡というほかはなかった。だが、目前には海抜四千五百メー
トルといわれる峻険スタンレー山脈が、私たちを待ちかまえていたのである。

第一章 死守玉砕
 珊瑚礁の島
赤道直下を思わせる暑い日射しと、南国情緒豊かな青い海、萄干柿が繁る珊瑚礁の島、ラ
バウル。
 「ラバウル航空隊」の歌で、日本人ならばだれにでも馴染みぶかい島でもあった。行けるこ
となら一度は行ってみたい憧れもあった。
 だが、ここは戦場である。観光地のような陽気さはない。異様な空気に、基地全体がつつ
まれていた。
 このラバウルは南方戦略根拠地として今村均大将の陸軍第八方面軍司令部と、その座下に
百武晴吉中将の第十七軍司令部があった。海軍では草鹿任一中将が南東方面艦隊司令長官と
なり、その座下に第八艦隊司令部があった。いわゆるソロモン諸島およびニューギニアを掌
握する扇の要といわれた重要な拠点であった。波静かで奥は深く、広々と円曲した自然の良
港である。
 湾内には、任務を待つ少数の駆逐艦と潜水艦が行儀よく係留されていた。一見、平和なた
たずまいに見うけられるものの、これが各海戦で残った虎の子艦隊である。昭和十七年五月
のサンゴ海海戦、六月のミッドウェー海戦、八月から十一月のソロモン沖一次から三次海戦
で、帝国海軍はみじめにも適合艦隊の主力艦隊を失い、わずかに駆逐艦と潜水艦がガダルカ
ナルから兵員の引き揚げとニューギニアに対する兵員物資の輸送に就役していたのである。
 湾の人目には灰色をした低い休火山があり、火山につづいた海岸線は珊瑚礁の破れ目から
湯煙りをあげて温泉が噴き出していた。
 天水以外に水のない島のために、各部隊はこの温泉をドラム缶に汲み取り、風呂に利用し
ていたのである。その湯煙りの上がる湾に面した広大な平地が、ラバウル航空基地になって
いた。
 海岸沿いの一部分が、日本で見られる小さな漁港という感じである。粗末な町並みは板張
りの木造家屋がっづいている。すすぼけた雑貨日用品店には、原住民を相手に原色の布類や
金物などを商いする店があった。世界中どこにでも根を下ろしている、踏まれても踏まれて
も起きあがる雑草にも似た華僑たちがいた。
 白人が去った町の社屋は、司令部など海軍の宿舎に利用されていたのであるが、むろん海
に縁のない陸軍の通過部隊は、山手の田の浦地区、赤根岬などに分散して駐留していた。山
の中の狭い平地を利用して丸木小屋を建て、一コ中隊単位で住めるのがやっとだった。
 それでも、宇品港を出発してから1ヵ月を要する長旅である。狭くて臭く、暑い輸送船の
毎日を思えば、極楽浄土である。日本の港を南下した船団は、一応、パラオを経由してラバ
ウルに入港するのであるが、パラオの港外もすでに危険水域になっていた。
 昭和十八年はじめからの船団が、無傷でラバウルに着くのは、運のよい船団であるといわ
れるほどに、南の海は撃沈の危険にさらされていたのである。難をまぬがれ、ぶじに船団が
入港すると、ラバウルの港に活気がもどってくる。ぞくぞくと新鋭部隊が上陸する。
 物資を陸揚げする港湾勤務者の黒い肌をした原住民が、軍用トラックに満載され、送り込
まれていたのもそのころまでであった。
 港に近い憲兵隊司令部の前を歩いていると、スパイ容疑か! それとも軍に反抗したもの
か、 開け放された窓の内側では、憲兵の怒声にまじって鞭が黒い肌で鳴っていた。ピシ
ッー・ という音に苦痛の悲鳴を聞いたものだった。
 連合艦隊壊滅の悲報、また身近なところではガダルカナルの敗退である。心の焦りと志気
消沈のなかで、殺気が地区を支配するようになっていた。ラバウルに流れてくる情報のすべ
てが悲報の連続ばかりで、緊迫する敗戦の状況に余裕はなかった。すでにポートモレスビー
の攻撃失敗につづいて、重要拠点であるブナ地区も玉砕した。東部ニューギニアにおける防
衛の一角が、もろくも崩れていたのである。
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