NPO 茨城インドネシア協会 
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追憶、セレベス島ミナハサへの道(1) /7       片山 清

僚船ふあぶる丸航行不能

昭和一九年八月八日輸送船めき志こ丸に乗船以来マニラ湾内に一週間待機した我が船団は、愈々八月十五日午前五時五〇分マニラ港を出発したのである。
船団は我が, めき志こ丸(五、七八五屯)はあぶる丸(五、六八二屯)国山丸(二、八七一屯)八仁丸(一、九一八屯)おりんぴあ丸(五、六一八屯)美崎丸(四、○○○屯)鎮西丸(一、九九九屯)図洋丸(五四四屯)岩城丸(八三九屯)計九隻に護衛艦は、第二八号掃海艇と、第四六号駆潜艇の僅か二隻である。我々は僅かな二隻の護衛艦に守られて愈々セレベス島ミナハサ半島の北東端に位置するビートン(Bitung)港に向がつて再び長駆危険な征旅に出るこどになった。

我々は再びコレヒドール島とバタン半島の間の北水道(Northchannel)を通過し、愈々敵潜の待ち構えているマニラ湾口の南支那海に出たのである。
船団はジグザグコースを取り乍ら時速九ノット位での進行であろう、九隻の輸送船に二隻の護衛艦であるから広い海原でその姿を見ることは希である。
船団は静かに黙々と前進しルソン島サンチヤゴ岬(CaPeSantiago)とその西方二十粁に横たわるルバング島(Lubang Is)の海峡を通り、フイリッピンの多島海の中央水路を南下する。

右舷にミンドロ島(Mindoro Is)を見てシブヤン海(SibuyanSea)に入る、この海路はフイリッピンの瀬戸内海と云つても良い程、大々小の島々が前後左右に横たわり、熱帯の太陽に輝される島々の緑と、熱帯特有のマリンコバルトの海を眺め乍ら航行する。船上よりの眺めは実に良く、のんびりと眺めていると、戦場に来ていることを忘れ、南方ヘヨット旅行にでも来ている気分である。これらの島々には、めつたに人家や聚落の姿を見ることは少い。この風景を見て私の考へたのは、ここには熱帯の植物の生長の旺盛な土地が、未開のまま・ゴロゴロと転がっているようであった。日本の瀬戸内海の島々は、生きんが為に山の頂上迄耕している。

又、土地は広いかも知れぬが寒い満州へ次々と開拓団を送り込んでいるが、一年中作物は成長し、防寒服も、ストーブの燃料もいらない、,こんな暮し良い開拓出来る土地があるのに、何故寒い満州に移民するのかと、疑問をもったのである。

これは現地を知らなかった私が、南方熱帯の地を体験しての最初の実感であった。
斯してシブヤン海に入り十五日、十六日、十七日と、この多島海を航海し八月十七日一四時四〇分にセブ島の主都セブに入港した。この間何度か敵潜警報が発せられたが何事もなく全船無事に入港した。
セブ港には巡洋艦一隻が横付けされており又、九一式水上偵察機が一機繋留されていた。マニラよりセブまでに、めき志こ丸では兵一名が病没した。又、セブでは不幸船内で発病した兵一七名を入院さす為下船させたのであった。

このセブは、十六世紀初めのマゼラン探検の時代より、古い聚落があった町で、相当の人家が遠望出来るが勿論上陸などは思ひもよらないことである。この日我が星井隊の佐々木軍曹は、給与係として船の事務長と共に、上陸したことを、後日戦友会の時に知った。
八月十七日の夜は、このセブ港外に仮泊したのである。
船団は此処セブ港で編成が変り、めき志こ丸、ふあぶる丸、国山丸、八仁丸の四隻となつたが、護衛艦はセブより第一〇五号哨戒艇一隻が更に加わつて、八月十八日夕刻一八時三〇分セブを出港した。
船団はボホル海(BoholSea)に出ると次は、スル-海(SuIusea)をミンダナオ島サンボアンガ半島に沿つて十八日夜、十九日一日と南下し、八月二十日十三時五〇分半島尖端のサンボアンガ(Zanboanga)港外に到着した。

サンボアンガはバシラン島(Basilan Is)に相対しバシラン海峡となり、このバシラン海峡の海の水は真ッ黒い色をしており気味が悪かつた。
この海峡を出るとセレベス海であり、南東方に進めばミンダナオ島ダバオ方面に出て、更に島伝いにカウ(KaWo Is)サンギエ(Sangihe Is)諸島伝ひにミナハサに達する。
南西スルー列島(Sulu)に沿って進めばポロ島(JoloIs)を過ぎボルネオ島(Borneo IS)に達する要港である。
港外の輸送船より見るサンボアンガは、港の奥の方に赤や青の色とりどりの屋根が見え相当な町の様な印象を受けたが、この一塊の聚落の四囲一望はこれ又、黒味を帯びた緑のうつそうたるジャングルである。

船団は此処で更に滅つて、我がめき志こ丸とふあぶる丸の二隻となつてしましたが、護衛艦が此処で更に又、第三一号駆潜艇一隻が追加されたことは、我々には大変な心強ざを与えて呉れた。

然し乍ら船団の船数が減るのに護衛艦が増えると云うことは、それ丈け危険度が増大して来ていると云うことに間違いないと私は直感した。
我が船団は八月二十一日朝八時五〇分サンボアンガを出港しスルー列島沿いに南下し、同日二〇時一〇分スルー列島中央に位置するポロ島(Jolo Is)ポロ(Jolo)に仮泊した。

此処は後に(十月五日)鈴木鉄三少將の卒いる独立混成第五十五旅団(菅兵団)の駐屯した所である。(ホロ島は二〇年四月九日敵上陸、菅兵団六〇〇〇名は生存者約八○名で正に玉砕と云える)翌朝島を眺めると小さな飛行場もある様に見えた。
その夜はホロ港外に仮泊し、明る八月二十二日早朝五時二五分、ポロを出港する。我が船団は四日後の八月二十五日二時頃セレベス島(Celebes Is)北東部ミナハサ(Minahasa)のモルツカ海(MoluccaSea)に面したレンベ海峡(SelatLembeh)に位置する良港ビートン港(Bitung)に到着の予定で出港したのである。
ビートン港は当時輝集団ミナハサ地区の兵担基地であつた。我がめき志こ丸とふあぶる丸は四隻の護衛艦に守られて一路ビートンへと向かった、
大海と云うに、セレベス海は油を流した様に穏やかで天気は晴朗であり、我々には何んの不安も感ぜしめない様な平穏な航海であつた。

両船はこのセレベス海を南東に向け一路ビートンへと一日航行した真夜中、正確には八月二十三日午前○時五分と云う。
北緯四度四十二分、東経一二一度四二分の海上に於て何と云うことか、僚船ふあぶる丸の中圧クランクシヤフトの折損事故が発生し、ふあぶる丸は航行不能となつたのである。

兵員弾薬資材を満載した輸送船が敵潜の遊父する大海の真つ只中に停止しているのである。
次で夜が明ければ今度は敵機の好目標となり得る存在である。正に危険極りない。安穏な航行もこの一事に因って破られたのである。だが私達は真夜中の就寝中のことであり全く知らなかつた。

我々が寝ている最中、めき志こ丸船員は血のにじむ様な努力を、不眠で続けてきたのであった。
ふあぶる丸航行不能に陥るや、先任護衛艦より、めき志こ丸に対し、ふあぶる丸曳航を命じた。
めき志こ丸は曳航準備作業を開始した、ふあぶる丸曳航のためには5・5吋の綱索五〇〇米を必要としたが、両船共その準備がないので、取敢ずふあぶる丸所有の5・5吋の綱索二二〇米を、

めき志こ丸に結着し、更に補強のため、めき志こ丸所有の8吋のマニラホーサーを、ふあぶる丸に流し附けて、結着す可く暗夜の洋上何等の援助も受けず作業は困難を極めたが漸やく鋼索取付けに成功したということである。
真夜中かちの連続作業であり乍ら既に夜は明けゴ十三日の九時になつていた。めき志こ丸はふあぶる丸を曳航す可く超微速で機関の運転を始めるや、悔しいかな鋼索が古品であつたためか一瞬にして忽ち切断されてしまったのである。

かくして洋上九時間の苦闘も水泡に帰したのであつた。万事休して此処に永く停滞せんか、敵潜の餌食となる公算は極めて大であり、何らかの方策を考え、この場を脱出しなければならなかつた、そこでめき志こ丸はふあぶる丸を左舷に防舷材を爽み、
抱合わせて、両船アベツクで航行する可く、先任護衛艇に報告した処、たまたま第一〇五哨戒艇艇長より、今一度哨戒艇により曳航を試みるから、めき志こ丸は抱合航行の準備をなし待機せよとの連絡を受けた。
こうして哨戒艇はめき志こ丸に比べて自重が遥かに小さいため、マニラホーサー1本で曳航することに成功したのである。
更に用心のため、マニラホーサー一本を追加増着し、二十三日正午、他の護衛艦三隻に守られ時速五ノット程度の鈍速で両船共にホロに向ひ、翌日八月二十四日午前一〇時四五分にポロに無事帰投することが出来たのは、全く不幸中の幸であった。
マニラ出発以来我が船団の護衛艦として我らを守って来て呉れた第二八号掃海艇、静四六号駆潜艇も燃料に限界が来たため、二十四日未明には船団を離れてサンボアンガ基地に燃料補給のため急行した。

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