NPO 茨城インドネシア協会 
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追憶、 メナド上陸まで       1/2    武田正 

昭和十九年六月十六日鯉城下歩兵十一聯隊にて産声をあげ歩兵四十二聯隊(山口)に到り隊長(星井茂信大尉)以下百七十六名誕生す。

他に歩兵四十二聯隊と歩兵二十一聯隊(濱田)の第五師団管轄の三聯隊の独混部隊を編成、その名も独立混成卜(ウラベ)部隊と呼称す。

二十七日午前十時、完全軍装も凛々しく山口聯隊営庭に集合、部隊長殿の訓示を受け在営将兵の見送りの中に威風堂々と山口駅に前進す。

時将に一二・00吾等が軍用列車は轟音高らかに、山口駅を出発す。途中長門沿道に於て老幼男女を問わず万歳の声に送られて戦友一同キットやるその力強い言葉が溢る。
夕刻下関市に到着。
途中確か米英軍と思われる俘虜の列車輸送に出逢い、敵愾心を覚ゆ。同夜門司着。

隊貨搬送に全員全力をつくす。同夜は門司市立高等女学校に一泊。同方面は特に第一次北九州方面の敵機来襲後にて防空観念も乏しく防空施設の充実ならずとの印象を受く。

同二十八日第一桟橋より吾等が輸送船の「アラビア丸」に乗船開始。隊長以下元気旺盛軍靴の音も高く故国の土を離れたり。

「アラビア丸」輸送指揮官は我々の部隊長殿にして乗船後種々の輸送間の命令注意をうく。

隊長以下一兵に到るまで乗船後は無事目的地到着の一念あるのみにて、対潜対空見張に、甲板集合、飛込訓練に一心を打ちこみつつ門司港外に待機の数日を送る。

愈々七月三日、早朝護衛艦を先頭に我が船団九隻は威容堂々と門司港を後にす。

四日五日六日と機関の音も順調に航行は続く。東支那海も七月初旬にて波穏やか、敵潜情報も二度発令のみにて六日払暁には我船団護衛艦上機南方より飛来し一同歓喜の中を船団外周を大きく数回旋回す。海面異常なしか。

旗流信号揚り各輸送船も之に答え、旗流すばやく交換の瞬間、日の丸も鮮かに超低空にて船団上空を旋回しつつ、翼を上下に振り船上の勇士に応えつつ我任務終れりと南方に帰還す。

七日午後から南西の彼方に島影を望む。同夕刻基隆港に護衛艦を先頭に入港・基地出帆以来警備司令殿(隊長)各小隊長殿は対空対潜にて昼夜を分たぬ激務も入港と同時に解かれ・中隊全員船槍に集合。隊長以下談笑し安らかな一夜を、ここ基隆港にて結ばれる。

本日は大詔奉載日にて中隊は船尾右舷に於て遙拝式実施。八日も無事暮九日十日と航行は恙し。一番危険海域と目指されし、「バシー海峡」に突入。

次々と敵潜情報は発せられ我が護衛艦艇、必死の活動が展開され、船団周囲を前後左右に、或は斜に快速をもって敵潜捜索を行い乍次々と、旗流信号発せられ船団之に呼応し勇壮なる対潜航進を展開「くの字型」にまたは「ぢぐざぐ」に鮮かなる前進は続き十日の夜半を迎う。

各船臆内に於ては諸命令、諸注意を再度伝達と共に応急準備の態勢にて待機、特に夜間に於ける護衛艦よりの赤青信号に就き一兵に到るまで徹底せしめられ、日直将校は特に灯火管制の状況を点検一段の緊張を加えるも、機関の音は益々順調に一同無事航行を祈る中に早や洩るる寝息のきこゆ。

明けて十一日相変らずの航行。稍々天気も時化模様と化し、黒雲垂れ、波も大きくうねりを生ずれども、流石我等の輸送船、堂々の南進を続け、一同唯々気になるのは敵潜の出没のみなり。

護衛艦は快速を利用して洋上を駆馳するので、大きなうねりを望見すると殆ど姿を没し、艦首、艦尾を別々に現し真に乗組員のご心労に対し感謝の念で一杯である。

敵潜の海底基地「バシー海峡」も後一日だ、頑張れ頑張れにて前夜来緊張は続き十二日を迎うや、午前三時応急準備発令。

直ちに装具を整え甲板所定の位置に集合。唯暗夜の海上に雷跡と護衛艦の赤青信号を一瞬も早く発見せんとの一念に船尾に於て対潜監視の任務につく。
やや東雲の頃、たしか五時過ぎ応急準備は一応解除。但し全員非常の配置で待機、船尾にて対潜監視中、

〇七・00頃突如右舷後方の僚船「日蘭丸」(南洋海運)より火柱上ると同時に速力の減ずるを見る。
他の僚船八隻と護衛艦は遭難の「日蘭丸」を見捨てたかの様にどんどん前進をする。

〇七・二〇頃「日蘭丸」は船尾を没したと見る間に船首を垂直に海面より没し去る。一同心から黙祷を捧げると共に悲壮なる決心を五官に沸かす。僚船「かしい丸」一隻救助の為に残る。

十三日黎明、ルソン島北端、アパリ港へ輸送船団は寄港。我が部隊は、ルソン島北端警備の命を受けて内地を出発したが、部隊はアパリに上陸する気配も無く、午後には出港して、ルソン島西沿岸を南航し続けた。

うっそうとつづく椰子の林立する海岸を荘然とながめながらの航行は、船内にも平穏な雰囲気がただよった。
当時、マニラは友軍の制空制海圏内にあり湾内には数十隻の艦船が待機しており、上空は連日友軍機が五十機以上哨戒にあたり、二十万の日本軍が駐留していた。

昭和十九年八月十五日一ケ月間のマニラ駐留生活を終え、セレベス島守備の命により、「めきしこ丸」に乗船して南進を始めた。
「めきしこ丸」は大阪商船所属の、五千沌級の貨物船で、船艙は一番から六番迄あり、吾が部隊は四番船艙に乗船した。

船艙を改装した蚕棚のような兵員室に押しこめられ、暑さは想像を絶するもので船艙内は蒸し風呂同様、異常な暑さの為、殆んどの兵士は甲板上で起居をしていた。
八月十七日セブ島に到着。

既に敵の制空制海圏内らしく、友軍の艦船及び機影も見当らず、戦況の変化を如実に覚ゆる。八月二十二日ホロ島出港。

翌二十三日○時五分北緯四度四二分、東経百二十一度四二分の地点に於いて、僚船「はあぶる丸」中圧「クランク」軸折損のため航行不能となり、哨戒艇に曳航されてポロ島に帰投する。

僚船「はあぶる丸」と別れた吾等の輸送船「めきしこ丸」は駆潜艇と掃海艇二隻の護衛艦に護られながら、セレべス島へと南進を続けた。

島影も見えなければ友軍機の飛来もなく、水平線の明け暮れが日課となり、セレベス海の真只中、凪ぎの日ともなれば平穏そのものの航海なのだが、敵潜水艦はどこにひそんでいるかわからない。

航海が続く限り何日でも一瞬の油断もできない不安を感じながらも、紺碧の海に船首が押し切る波、驚いて左右に飛び散る銀色の飛魚を見ていると、また一日生きていたあ、という幸福感がしみじみとわいてきた。
「はあぶる丸」と離船して数日後「めきしこ丸」に病死の兵員があり、水葬の祭壇が甲板上、ハッチボート(木製艙口蓋)で作られ、その上に、アンペラ袋に遺体を納めて、日の丸の国旗を被せて、戦友が合唱する「海ゆかば」の歌声と共にセレベス海深く永遠の眠りに没したのである。

何か不吉な雰囲気の船内で兵器装身具の喪失が続出して、上陸目前を控えて員数合せの争奪が始まった。戦闘帽を失ったので深夜を待って、一番船艙附近甲板上に就寝している兵員の戦闘帽を拝借しようと物色したが殆んどが顎紐をかけているので目的を果せず、亦の機会にと諦めて船艙に引返す。

現々としている時、八月二十九日午前二時四十八分、「ビシー」と言葉で形容出来ない異様な衝撃音で目を覚す。

体躯が片隅へ転がり、途端に電灯が消えて真暗闇になり船体が斜めになった。魚雷が命中。救命胴衣を枕にして寝ていたので、手元に胴衣が見当らない。戦闘帽より胴衣を見つけなければと探したところ、直ぐに見つかり褌一つなので軍袴を着装して救命胴衣をつける。

白煙が船艙内に充満して来て船内はパニック状態となる。階段は吾れ先にと兵士が群がり、甲板から船艙内に垂れ下がる網梯子は、蜘蛛が巣を作るかの如くよじ登る兵員で一ぱい。なかなか甲板上に脱出が出来ない。

雷撃を受けて約三十分位経過した頃に漸く甲板上に出ると、船橋前方に火柱が立ちあがり、「パンパン」と弾薬の破裂する爆発音が響き渡る凄ましい光景である。


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