NPO 茨城インドネシア協会
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 モロタイ

背景 [編集]太平洋戦争中、ニューギニア方面から反攻作戦を行ってきたダグラス・マッカーサー将軍を指揮官とする連合軍は、1944年後半についにフィリピンへの侵攻に着手することにした。その第一歩として、フィリピン方面への航空作戦の拠点の確保が必要となり、モロタイ島がペリリュー島と並んで攻撃目標に選ばれた。(この際の戦略決定の経緯についてはフィリピンの戦い (1944-1945年)#アメリカを参照。)

一方、1942年にオランダ領東インドの一部であったモロタイ島を占領した日本軍は、以後、あまり有力な守備隊を配置していなかった。1944年にモルッカ諸島方面の防備強化が図られ、第32師団が派遣されたが、守備の重点は平野が多く飛行場に適した隣のハルマヘラ島に置かれた。モロタイ島には、一旦は第32師団の2個大隊が分遣されて飛行場建設を進めたが、水はけが悪いために建設は放棄された。この2個大隊はハルマヘラ島に撤収し、後には川島威伸中尉を指揮官とする第2遊撃隊所属の2個中隊(主に高砂義勇兵)を配置しただけであった。
連合軍の上陸時、島には9000人の現地人が住んでいた。島民に対する宣撫工作を行うために、連合軍の上陸部隊には、オランダ軍の民政班が加えられた。
戦闘経過 [編集] 連合軍の上陸 [編集]
モロタイ島の米軍作戦図連合軍は、アメリカ陸軍地上軍4万人、アメリカ陸軍航空軍1万7000人の圧倒的兵力を投入して、モロタイ島の攻略に着手した。1944年8月から9月にかけて、モロタイ島及びペリリュー島への上陸支援のため、フィリピン各地やハルマヘラ島、セレベス島など周辺地域で、機動部隊搭載機などによる航空撃滅戦が行われた。ダバオ誤報事件も重なった結果、日本側の航空戦力は壊滅した。日本軍に上陸意図を察知されないよう、モロタイ島自体への空襲や航空偵察は限定的なものとされた[1]。
9月15日早朝、アメリカ海軍第77任務部隊は、オーストラリア海軍艦2隻を含む巡洋艦5隻や護衛空母6隻などにより、約2時間の事前砲爆撃を上陸地点に対して行った。8時30分、LST45隻などの輸送船団により、アメリカ陸軍第31師団の3個連隊戦闘団をもってモロタイ島への上陸戦を開始した。日本軍地上部隊の抵抗はなかったが、泥やサンゴ礁が揚陸の妨げとなった。
9月18日頃から日本軍の地上反撃があったが、いずれも撃退され、10月4日までにアメリカ軍は島内の制圧を一通り終えた。アメリカ軍の記録によると日本兵104名が戦死し、13名が捕虜となった。アメリカ軍の損害は戦死・行方不明31名、負傷85名だった[2]。DDT散布が効果をあげ、マラリアなどによるアメリカ軍の戦病者は少数に抑えられた。
日本軍の逆上陸を警戒したアメリカ軍は、すぐさま島にPTボート41隻を配備した。これらはモロタイ島近海で200隻以上の日本軍舟艇を撃沈したと報じている[3]。

日本軍の反撃 [編集]
日本軍の逆上陸作戦図日本軍は、第7飛行師団などの陸海軍航空部隊と潜水艦による反撃を行ったが、大きな成果は得られなかった。連合軍の被害は、護衛駆逐艦「シェルトン」が沈んだ程度であった。
ハルマヘラ島からは船舶工兵第18連隊の舟艇により、第32師団の逆上陸部隊が「斬込[4]隊」として送られ、連合軍飛行場への妨害活動を行った。まず9月26日夜に歩兵第211連隊と212連隊からの3個中隊が出発し、うち2個中隊が成功した。10月上旬には歩兵第210連隊の主力550名が、大発動艇10隻に分乗して逆上陸を行ったが、2隻は空襲で撃沈された。11月16日には歩兵第211連隊主力の守田義輝連隊長以下500名が、軍旗とともに無事に上陸した。守田大佐は、後続の第10派遣隊の1個大隊(180名)など1500名を11月末までに掌握して戦闘したが、12月中旬に戦死した[5]。そのため、歩兵第210連隊長の大内競大佐が1945年1月10日にモロタイ島へ進出し、新たな現地指揮官となった。
航空機による飛行場への妨害攻撃や小規模な逆上陸は、その後のフィリピン各地の戦いの間も続けられた。レイテ島での義号作戦の一環として空挺部隊の降下も検討されたが、実行はされなかった[6]。ハルマヘラ島からの最後の補給舟艇が到着したのは1945年5月下旬、最後の日本軍による空襲が行われたのは1945年6月23日であった[7]。

結果 [編集]
1945年4月のモロタイ島
降伏の事前交渉のためモロタイ島を訪れた日本軍の第32師団長石井嘉穂中将。島を占領した連合軍は、予定通りに大量の建設部隊を送り込み、基地設営を開始した。建設作業にはオランダ軍民政班の徴用した現地人も参加した。日本軍の建設していた飛行場を拡張する計画であったが、やはり地質的に困難と判明したため、新規に滑走路が建設された。10月4日には1500m滑走路が大型爆撃機の作戦可能状態に整備され、ボルネオ島のバリクパパン攻撃などに利用された[8]。その後も基地の拡張は進められ、10月17日には2100mの第二滑走路が完成、11月には約250機の航空機が展開するようになった。燃料タンクや約3000床規模の病院なども整備された。
レイテ島の戦いなどにおいて、モロタイ島は空襲拠点や後方基地として重要な役割を果たした。太平洋戦争終戦時の日本陸軍第2軍の降伏式典も、モロタイ島で行われている。
終戦時に660名の日本兵が投降したが、一部の日本兵は日本の降伏を知らず、なおもジャングル内で生き延びた。例えば1956年には9人の元日本兵が発見され、日本に帰国した。1974年末には高砂義勇隊の中村輝夫(本名、スニオン、李光輝)が発見され、台湾に帰国している。
モロタイ島

モロタイ島の地形。右下の窓は島の位置。 2°19′N, 128°32′E
面積 1,800 km2
海岸線長 - km
最高標高 - m
所在海域 モルッカ諸島
所属国・地域 インドネシア

モロタイ島(Morotai Island)は東インドネシア・モルッカ諸島(マルク諸島とも)の島の一つ。ハルマヘラ島の北に位置し面積1,800km2。北マルク州の一部であり、インドネシアの最も北寄りの島の1つである。
歴史 [編集]15世紀から16世紀にかけて、モロタイ島はイスラム教のテルナテ王国(Ternate)の勢力圏下にあった。テルナテ島とハルマヘラ島の海岸線を含む地域はモロ(Moro)と呼ばれ、テルテナ王国の広大な勢力圏の中心だった。
16世紀なかば、この島にポルトガルのイエズス会が進出した。テルナテとハルマヘラのイスラム教国家の人々は、改宗活動のための移住に憤り、1571年に島から宣教師たちを追放した。これはモルッカ諸島地方におけるポルトガル勢力の大幅な後退の一部をなす動きだった。17世紀早々、テルナテ王国の勢力はますます拡大し、モロタイ島の人口の大部分が島を追い出されハルマヘラ島西海岸の要所、ドディンガ(Dodinga)へ移住させられた。また1627年と1628年にテルナテ王国のスルタン・ハムザ(Sultan Hamzah)は、監視の容易なテルナテ島マラユ(Malayu)に島のキリスト教信者の多くを移住させた。このように人々の多くを繰り返し退去させることでテルナテ王国はモロタイ島への影響力を増した。
太平洋戦争初期、1942年前半に日本軍によって島は占領された。1944年9月のモロタイ島の戦いで米軍が奪取、連合軍はフィリピンに向かって突き出したこの島を1945年初頭のフィリピン、および5月、6月のボルネオ侵攻の足掛かりとした。また1945年10月に予定されていた(日本の降伏により取りやめとなった)ジャワ島侵攻のための基地でもあった。
経済 [編集]島は深い熱帯雨林に覆われ、林業と樹脂の生産が盛んである。

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(83) Bandara Dai Nippon(83)モロタイ島 << 作成日時 : 2009/02/26 00:00 >>

「珊瑚礁が突起して出来上がった南方の島々で、普通の土地のように土を掘って、艦砲射撃に対抗し得るような防禦陣地が出来ると思って居たのは、大変な不覚で、之は容易なわざでないということが、上陸早々気がついた。(中略)モロタイというハルマヘラ北方の湾内を扼して居る小さな島は、戦略的にはどうしても保有したいという部隊長としての希望と、右の事情は、私を大に煩悶せしめた。(中略)この時方面軍から、モロタイを捨てハルマヘラ本島保有に専念すべき旨の命令があったので、私はホットすると共に、指揮官は正にこうなければならんと大変に感銘した」(『濠北を征く』[濠北方面遺骨引揚促進会・昭和31年8月20日初版]の「ハルマヘラでの感銘」の項で、石井嘉穂元第32師団長が述懐)。モロタイ島の地質構成図によれば、大まかに言って同島の東半分は石灰岩、西半分は安山岩。珊瑚礁が隆起した島々での飛行場設定は、モロタイ島に限らず、インドネシア東部の各地で日本軍を悩ませた。
日本軍が飛行場設定不適地として見捨てたモロタイ島に、連合軍は短期間で大型の飛行場を造った。昭和19(1944)年9月15日、上陸したダグラス・マッカーサー大将率いる連合軍は、上陸二日後に、日本軍が整地した段階で放棄した滑走路用地を戦闘機用の不時着飛行場として修復した。そして10月4日には、鉄製マットを敷いた長さ約1,200mのものが使用可能となり、さらに10月17日、長さ約2,100mの滑走路が完成した。9月19日以降、P-38、P-47、B-24、P-61、P-40Nなどの連合軍飛行部隊が同地に進出し、フィリピン攻略戦の一大航空基地が設定された。
その形が星条旗に似ているため“The Stars and Stripes ”とも称された連合軍新設のピトゥ&ワマ飛行場。掩体壕の数が巨大基地だったことを物語っている。
昭和19(1944)年5月、ハルマヘラ島に上陸するやいなや、第32師団は歩兵第211連隊(守田義輝大佐)と野砲1個大隊をモロタイ島へ配備した。しかし第2方面軍(阿南惟幾大将)は、8月、「小兵力の分散配置は玉砕の虚名を飾るのみである」として、連隊主力をハルマヘラ島へ引き揚げさせた。この結果、モロタイ島の守備は第2遊撃隊(川島威伸少佐・台湾の山地出身兵で特別編成・4個中隊約450名)に任せられた。
「此の部隊(注:川島部隊)はニューギニア方面のゲリラ部隊として特に訓練せられたのであるが、も早、向うえ行けなくなったので、之をモロタイに入れる旨を聞いて、之は妙案、部隊には大変御苦労をかけるが。此のジャングル地帯では、装備の優秀な米軍に対抗出来るのは、ジャングルを利用し、ゲリラをやりながら遊撃的に防禦し得る此の部隊しかいない、よい方策を考えられたものと有難く思うた。しかし此の糧秣等の補給はどうしたものかと、ハタと困ったが、其の時部隊長は、此の部隊の兵は蛇やトカゲを食うて生存出来るように、先祖代々、台湾の山地で鍛えられて居るから、心配はいりませんと、心強く言われて、成る程之でこそジャングル地帯のゲリラ部隊であると、又々感心させられた。少したって米軍が上陸して着々飛行場が建設された。其の間、川島部隊は独特の性能を発揮し、大に米軍を悩まして居ることを遠くワシレで聞き、痛快に思うて居った」
---(『濠北を征く』[濠北方面遺骨引揚促進会・昭和31年8月20日初版]の「ハルマヘラでの感銘」の項で、石井嘉穂元第32師団長が述懐)。
この川島部隊の中には、高砂義勇兵の歩兵一等兵として、アミ民族出身のスニヨン(李光輝:日本名は中村輝夫)さんがいた。スニヨンさんは、終戦を知らずにモロタイ島の密林に独り生き続け、1974年12月に発見され、出征から30年以上も経った翌年1月台湾へ戻った。

連合軍がモロタイ島南部に上陸した昭和19(1944)年9月15日。その夜、第7飛行師団(須藤栄之助中将)隷下の第3飛行団(長濱秀明大佐)指揮下の第75戦隊(土井勤中佐)の中隊長川村安次大尉はブル島のナムレア基地から出撃し、連合軍上陸地点であるギラ岬の揚陸点を空爆した。また、第7飛行師団隷下で、北セレベス(スラウェシ)のランゴアンを基地とする第9飛行団(坪内剛直大佐)は、指揮下の第24戦隊(庄子孝一大尉)や第73中隊(春成兼正中隊長)などを出撃させた。この際、マカッサルから飛び立った第73中隊の小島文夫曹長、笹野美秀曹長が搭乗した機は敵艦に特攻。
石井第32師団師団長は、阿南第2方面軍司令官より「決戦ノ秋来ル 予ハ必勝ヲ確心ス 敵撃滅ニ邁進スヘシ」の激励電報を受けたという。第32師団は、モロタイ島の“ゲリラ戦部隊”である第2遊撃隊の持久戦に期待する一方で、ハルマヘラ島から逆上陸作戦として“斬り込み隊”を11度にわたりモロタイ島に送り込んだ。「之は共に日本戦史に未だ之を見ぬことであり、世界戦史にも亦。稀有な戦績と謂わざるを得ない」---と元第32師団長は回顧している(『濠北を征く』)。


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