NPO 茨城インドネシア協会
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 蘭領東印度に於ける鰹漁業を語る       大岩 勇                               
                 フイルマーピートン漁業公司  大岩漁業合資会社々長   

戦前、北スラウェシでカツオ漁業の先駆者として知られる大岩勇氏の著です。
                                      
先覚者 江川俊治氏…
海國男子の意氣と度胸を渾身に躍動させて、ふるさと遠く外南洋に於ける海の宝庫--鰹漁場--を発くべく堂々の歩武を眞先に進めた人は一體誰であったらうか。
[ 犠牲と困難とは開拓者に課せられたる宿命である、」とばかりに勇躍此の國家的新事業に乗出したのは秋田縣人、江川俊治氏其の人であつた、

氏は大正十年頃、早くも二千噸級の近代的冷藏船を使用してハルマヘラ島タルナーテを中心として斯業の経営に乗り出したのであつた。

今にして想へば當時氏の新規事業に対して積極的た後楯ともなるべき水産専門家の無かった事や、漁労手段や漁労の方法に於て合理的経営の見透しをつける事の困難なる点や、さては漁獲物の販売上に於ける豫測の難点等々次々に手傳って氏の手腕の試金石とした事は、氏にとつては一人感慨深い事と思ふ。
斯様なる困難にも拘らず、氏は飽く迄も隠忍自重、よく之等の障碍を突破して、今日に於ける同地水産業開発の基礎を確立せられたのであつた。

當時の諸計画を今日の情勢の下に於て利用するならば,非常なる好成績を挙げ得たであろうといふ事を固く信じて疑はない次第である。
我々は今日,先輩の努力の後を継承して比較的順調に事業の経営に當る事が出來る様になつた事を感謝すると共に先覚者江川氏の労を多とするものである。

大岩漁業の濫觴…
 私が南洋で始めて漁業に手を染めたのは昭和六年の事であつた。
大正十一年に私が内南洋に渡航した時既に、同地に於ける鰹漁業の有望性に就て目星をつけ、爾來、時期の到來するのを待つてゐたが、なかなか思ふ様には進捗しなかつた。

昭和六年の事、南洋で鰹漁業の経営に當つてゐた金城漁業組合がその雄圖空しく内地へ引き上げた際には、私が豫てより同組合に援助を與へてゐた関係上、同地に取り淺され蹄趨に迷つてゐた多数の漁夫に就職の機會を與へるべく、同漁業に就いて根本的なる再計書の陣容を以て臨んだのであつた。

愈々事業に乗り出してからも、ズブの素人の事とて、何事につけても烏が鵜の眞似をすると云つた様な具合に、失敗に失敗を重ねたのであつたが、その都度その失敗の原因を探究して、潮流や餌附の具合等に至る迄文字通り研究に研究の幾星霜を重ねたのであつた。

百二十浬を距てた兩根據地タルナーテとビートン…
 昭和六年セレベス島ビートンに於ける漁業経営を契機として、更に北上,ハルマヘラ島タルナーテ港に根據を求めたのはその翌年の事であつた。
タルナーテはビートンを距る東北方百二十浬の地点にあり、潮流、餌の種類、漁獲法等に就ても他と其の趣を異にし,その爲に思はぬ失敗も仕出かし、・怪我の功名を収めた事もあつた。

當時最も我々が頭を悩ましたのは餌料の問題であつたが、現在、タルナーテでは餌料に關する悩みの種は解消するに至った。
同地に於ては今や配するに二隻(大岩組)の漁船を以てし、製造工場も出來上り、從業の数も百八十名そ数へるに至り、その内邦人は四十名、土人は百四十名に達してゐる。
セレベス島、ビートン漁場に於ては現在も船数六隻(大岩漁業四隻其の他二隻)從業負四百人を数へ、土人はその四分の三に達してゐる。

此處では土著住民との折合も至極圓満にゆき蘭領當局の後援と助力とにより、恐らくは、外南洋に於ける他の如何なる天地に於けるよりも手厚い優遇を受けてゐるのであつて、我等は同地官憲対しては満腔の謝意を捧げると共に、當局者の意のあるところを汲んで、飽く迄も共存共榮の旗標の下に水産資源の開発による食料供給の大使命遂行の爲に些か努力を績けてゐる次第である。

ビートン村は最初日本人が漁業を始めた頃は僅に十一戸位しかなかつたのを現今は四百戸ばかりに増加してゐる。
自動車の普及も著しく、交通は四通し,至標便利になつてゐる。
漁獲物の販売はその日その日に現場で生の儘支那人及び土人仲貿人に売り渡し夫等の人々の手そ通じてその配給を受けた土入は燻製品に作り上げ、自動車や馬車に乗込んで彼等自ら地方に出掛けて販売をする。

こんな風な具合に漁獲物を巡つて土人が商業的行爲を営む余地が多分に存してゐる譯で、此の間に介入する事によって土人の多くは大攣裕輻な生活を送れる様になつた、
現在のところ、水産物の仲買人として活躍を続けてゐる土人の数は約五十家族位のものである。
鰹の値段はと云へば昨年一貫目十二、三銭位を唱へてゐたものが、近頃は七鈍位に暴落するに至つた。

鰹の斯る暴落の直接の原因は何であるかと云ふに、それは云ふ迄も無く、豊漁期に於ける生産過剰に基くものであるから、斯様な不合理なる現象を除却する爲には、速に近代化した冷凍設備を施す事が必要であり、漁労の合理的経営と相侯つて、之が製造設備の充實を計る爲にはどうしても近代科学の粋を取り入れた資本家的経営を必要とする事は勿論の事である。

鰹の魚道…最後に鰹漁と密接な關係を有する鰹の魚道に就いて一言して見たい。
鰹は主として零度線附近に於て産卵をする。孵化した鰹は五、六寸の大さになる迄は、生れた附近を離れて遠くへ游泳する様な事はしないが、成魚となるに順つて或る一定のコースに從つて游し始めるものの如くである。

内地には、南洋で獲れる魚は何處で生れて、どんな経路をとるかについては余り文献にも記述してない様であるが、南洋では、殊に私の操業地域に於ては稚魚から成魚に至る迄の発育の段階が明瞭に看取する事が出來る。

然らば一體如何なるコースをとつて鰹は游を続けてゆくかと云ふに、大體次の三つの部類に分つ事が出來ると思ふ。

(その一)黒潮を,ブイリツピン、豪湾, 沖縄、九州南端、八丈島の邊に至る北東の方向に進み、それより南下してサイパン、パラオを通り再び零度線附近に游する場合、

(その二)同方向に向つた集団が八丈島方面に至つて逆行し、.フィリッピン沿岸を通り再び出発点に向ひ逆行する場合

(その三)同じく同方向に向つた集團の内より一部は一路東進、遙かにミツドウエー、ハワイ沿岸に迄到達する場合。

大體前述の如く三つの状況を豫測する事が出來るのであるが,北上した鰹が再び出発点に帰来する迄には少く共三年の日子を費す事は周知の事費である。

同地に於ける鰹漁業の開発は,目下のところ漸くその緒に着いたばかりであると云ふも過言ではなく、その豊富なる資源を手近に控へた日本としては同漁業の將來性に鑑み、須く國家百年の大計を樹立して官民一致之が開発に力を致されむ事を切望して止まない次第である。(文責在記者)


出典  昭和12年11月25日発行 「南洋水産」第30号(第三巻)第十一号抜


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