NPO 茨城インドネシア協会 
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セレベス戦記   死闘ハルマヘラ島 (1) /6   奥村  

苦難の海
昭和十九年七月四日のあけがた、私はニューギニア方面に向かう輸送船の甲板にいた。
ニューギニア方面ということだけは知らされていた。
ニューギニアの某地点に上陸するという噂だけで、実際はどこへゆくのか、行ってみなければわからない。

すでに連合軍は、ソロモン群島およびニューギニア方面の日本軍を制圧したという悪いニュースが、ひんぴんと耳にはいってきていた。
わかっているのは、明日をも知れぬわが身、ということだけである。

私は一列縦隊ですすむ八隻の輸送船団(小型護衛艦一隻をふくむ)の第六番船に乗っていた。
すべて海上機動第二旅団輸送隊(連隊長関根中佐)の将兵で、私は第一中隊第五小隊長であった。
七月一日付で見習士官から少尉に任官したばかりのホヤホヤ小隊長にすぎない。

まだ若く、学窓から幹部候補生として陸軍に入隊し、一年かそこらで少尉の階級をあたえられた速成の小隊長で、われながら心もとないかぎりであった。
いきなり修羅の海域にひっぱりだされ、実戦に参加するといっても、無我夢中の心境である。小隊五十名を指揮掌握するにも骨が折れた。

フィリピンのマニラを出航してからの六日間、航海は苦しかった。船酔いにつづいて、昼夜をわかたぬノミ、シラミ、南京虫の攻撃にくるしめられた。
ミンダナオ島の北東部スリガオ海峡を、東の外海へすりぬけたころ、敵潜水艦の魚雷攻撃をうけた。
たくみな操舵で奇跡的な体かわしに成功したが、いつやられるかわからないという不安が心理的な影響をあたえ、兵の士気を鈍らせたことはあらそえない。

しかも、私は当時南方地域に流行していた悪性のデング熱(蚊によって伝染する熱帯性伝染病)におかされた。
終始、四十度以上の高熱にうなされ、頭は狂い、意識はもうろうとして、うめきくるしみ、半睡半醒の状態でうわごとを叫びつづけた。
食事もとれなかった。軍医は乗船していなかった。
一片の氷すら与えられなかった。
朝、熱がひいて、ひとときの小康を得たとき、私は高鳴る心臓をおさえながら、目的地へ到着するまでに、最初の犠牲者として死にゆく自分の運命を思った。

小隊長の任務どころではなく、部下に迷惑をかけるだけの自分がはずかしくてならなかった。
心弱く、病気であれなんであれ、連隊で第一番に死ぬのは、自分にちがいないと考えた。
ぽんぽん育ちの青白きインテリで、なんの役にもたたない将校の自分をのろった。

深夜、熱がたかまると、無意識のうちに衣服をはぎとり、揮一本の裸体となって上甲板へはっていった。
少しでも冷たい鉄板上によこたわり、わずかなねむりをむさぼろうとするのであった。

わが海上機動第二旅団輸送隊は、昭和十九年四月一日、台南(台湾・安平)で編成された。
装備は正規の歩兵一個連隊(隊長以下千四百名)であるが、海上輸送隊として舟艇が実戦時に配備されることになっており、安平砂浜海岸での猛訓練は、主として航海・運用術および舟艇操作に集中された。
部隊は、連隊本部と四個中隊(一個中隊二百五十名)に、機動中隊を加えたものからなりたっていた。
私の所属中隊は輸送隊第一中隊(中隊長中島中尉)で、私(奥村明少尉)は第五小隊長(小隊長以下五十名)であった。

輸送船の航行中、第一中隊長の指揮下に、台湾兵補百名がはいっていた。
台湾兵補は日本軍の補助兵として台湾で編成された現地人の志願青少年たちで、第一線の後方で農耕・畜産・漁労など、食糧物資を補給する任務をおびていた。
目的地では、わが指揮下を離れるはずであった。

兵補隊長は元軍曹の日本人軍属である。私たち輸送隊の任務は、海上機動第二旅団(旅団長玉田少将以下四千名)の兵器・弾薬・糧食その他の物資を運搬する海上機動補給が主な任務で、決戦時には本隊と合流して戦闘に加わることであった。
台湾で編成してフィリピンに移動したわが輸送隊が、満をじしてマニラ港を出発したのは、旅団本隊を追及合流するためにほかならない。

しかし本隊がニューギニアの某基点にあり、という想定以外に、具体的にはなにひとつ知らされていなかった。
わが輸送隊の本隊、すなわち海上機動第二旅団そのものの任務は、南方占領地域に反攻占領する米軍をめがけて、きりもみ逆上陸をはかり、敵を一挙に総熾滅することにあった。

本隊は海上に浮游待機する幻の機動部隊といってよく、その所在をあきらかにすることはできない。
したがって、わが輸送連隊は、ニューギニア方面へ急遽向かえ、という暗号命令によって行動を開始しただけで、暗中模索、盲目的に南海の怒濤をかいくぐっているにすぎなかった。

連隊長自身もわからないのだから、私たち下級将校にわかるはずはない。
また、奇怪で不安をそそられるのは、舟艇機動部隊であるはずのわが輸送隊に、かんじんの舟艇が一隻もわたっていないことだった。
舟がなければ、訓練の成果をあげることはもちろん、兵器・弾薬・被服・糧秣の補給という任務がはたせないのであった。

すでにガダルカナルのわが軍撤収以来、南方の戦線をひろげすぎた軍主力の分散・弱体化の盲点をつき、巨大な物量にものをいわせた連合軍の総反攻によって、敗退を余儀なくされている昭和十九年七月の時点で、なんともいえぬ不安のかげが色こく私たちをおびやかしたのも当然であったろう。
デング熱で、もうろう状態にいた私などは、暗い途方もない南の大海洋に浮かぶ幽霊船に乗っているような思いであった。

上甲板で死人のように横たわっている私の耳に、がやがや何かしゃべっている台湾兵補の声が、まいそう潮騒のように聞こえた。雄鶏や、豚の鳴声がまじり、まぶたに明るい昧爽の微光と潮風の匂いをかんじた。.
まだ夢をみているようでもあり、あけがたの気配と涼しいそよ風の頬をなぶる感触に熱がさがったのかもしれないなどと思っているうちに、鶏と豚の声がはっきり私をめざめさせた。

貨物を積みあげた甲板上に、兵補が宰領し監視にあたっている小豚の濫と、金網張りの鶏籠が積みあげてあった。
けたたましく騒ぎだした豚や鶏は、海上に夜が明けはじめ、目の前に陸地がひろがってきたことを、私に教えた。上甲板に兵たちがぞくぞく集まってくる気配も、ただごとではなかった。

船のエンジンの音が変わった。
ガラガラと錨をおろす鎖が鉄板に擦れる音もまじっていた。はっきり私は目をさました。
よろめく足をふみしめて、貨物に手をささえながら、舷側の手すりまで歩いた。

小型護衛艦一隻がつぎそった七隻の輸送船は、数百メートル巾の水道を通って小さいまるい湾内へはいったのだ。
私は手すりこしにゆっくり移動し、目の前にひろがる島、白く光るわん曲した渚と、うっそうとつづく椰子の木立を把然とながめた。
朝日は美しくかがやき、船は投錨をおえて、船腹に光の波紋をえがいている。ああ、着いたのだと思った。
「ここへ降りるのかな」
「なんという島だろう」
みんな好奇心に目をかがやかしながらかってなことを言っている。友軍の姿はなかった。海岸線へはいあがっているマングローブの群落。砂丘につづく放射線に葉を茂らせた椰子。そのうしろはジャングルの樹海。
無気味な絶海の孤島にもみえる。しかし、唯投錨しただけのことで、下船の命令は出なかった。

湾内の海の色は無気味な黒紫色をしめしていた。
水深はわからないが、珊瑚礁などのある浅海とちがって、かなり深い。
午前十時ごろに、黒いマングローブの茂みから、二人乗りのヵヌー数隻が、数百メートルの海上にあらわれた。

望遠鏡で眺めると、漕ぎ手は裸体姿の原住民で、あやしいものではないらしい。
ここには原始土人も住んでいて、まるっきりの無人島ではないということだけがわかった。

日本軍駐屯の気配もないこの小島の奥深い湾内をつぶさに観察すると、輸送船団の格好の退避場所なのかもしれなかった。
休憩地点としては島かげに遮蔽されて、奥深く湾曲された湾に身をひそめていると、外海からは完全にみえないらしかった。

航海日数と方角を考えあわせ、教材用の地図をみて推測すると、セレベス海中のタラウト島付近に点在する小島の一つとも思われた。
やはり、一時退避の場所であったらしく、船団は夕ぐれを待ってふたたび抜錨した。夜にまぎれての隠密航海が目的だったのである。

夜光虫の光る波をきりさいて、船は全速で外海にでると、舳を東南方に向けて走った。その島は私には永遠に所在不明の地となった。
豚や鶏はひっそりとなり、兵たちはふたたび明日をも知れぬ不安の身を船艙に横たえた。

私はまたも高熱にうなされた。どこへ連れてゆかれるのかわからない。もし、生きているとしたら、さしあたり明日の朝を待つしかないのであった。
夜のやみに包まれた大洋のうねりのなかで、僚船のすがたもみえぬ心細さに耐えていると、奇怪な幻覚におそわれた。
海上の忍者部隊、すなわち第二旅団本隊など、どこにも存在していない。さがしてもさがしてもわからず、すでにニューギニアの敵にひきつけられて、逆上陸どころではなく全員壊滅したあとだった。

やっとニューギニア海域に旅団の船団を発見し近づいてゆくと、影のように姿を没した。それは旅団の亡霊だった。
私はそのような恐ろしい幻覚を漆黒にうねる海上に眺め、全身にびっしょり汗をかいた。
悪夢にうなされて目ざめたのは、 一度や二度ではない。

デング熱患者の深夜の妄想にすぎないのであった。
やっと朝がきたことは、鶏や豚の鳴き声でわかった。 大海原は紫水晶色にゆれていた。
護衛艦のつきそった七隻の輸送船は、二列縦隊で速度八ノットのじぐざぐ行進に移った。
危険海域を航行中の、魚雷攻撃から身をかわすための体形である。 

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