NPO 茨城インドネシア協会 
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まぼろしの隠し滑走路をたずねて  
                 
太平洋戦争当時のスラウェシでの兵士の行動を通して現地の風習文化を記したセレベス戦記なる個人戦史本がある。
京大から少尉としてハルマヘラに赴任上陸、マナドヘ転戦後、命令を受けマカッサルまでの三千キロの彷徨を体験した奥村明氏が後世に残そうと考え当時の自分の残した記録と文献を合わせ作成した体験記録である。

個人的にこの本に興味を持ち、時間あるごとに各地を訪れていた。
そのなかで私は「SIDATE」にある旧日本軍の隠れ飛行場に興味を引かれていたのだった。
どこで聞いてもシダテ、またはシダートの名は分からなかった。

米軍の保管している記録の緯度を頼りにグーグルアースにも見当たらない。
一時は現在のサムラトラギ空港かとも思い調査したものだった。
グーグルアースでは、1942年当時のカウィラン飛行場跡が微かであるがシルエットとして見られる。

ちょうどアムランのカロラン病院に働く日系人を訪ねる時間があり、戦時中日本兵と恋に落ち娘を残し日本へ去った兵士の娘さんを訪ねた。
娘さんといっても戦後20年生まれであり御年65歳である。
彼女の母親クララさんは、戦後残され二人っきりになり、娘を育てることを唯一の人生の目標に、再婚もせず、82歳で亡くなるまでその兵士を待ったのであった。
カロラン病院を建てた田村医師から連絡を受けたその兵士は病床で60年ぶりの涙の再会を果たしました。
そして彼女は2ヵ月後安心したかのようにこの世を去ったのでした。

久しぶりの再会の挨拶をそこそこに当時の状況、日本人の動向を聞き、いままで分からなかった彼女の母親の父親も日本人であり、その名は笠間さんであったということと、その父親はサンゲルへの販売代金請求の帰りに船の中で服毒殺されマナドの日本人墓地に埋葬されているという。
しかし私は彼女にマナドの日本人墓地はビトンへ移されたことを伝えると悲しそうな顔をしていた。
また彼女は多くの残された日本人の子を知っており、それには驚かされました。

その娘さんから話の中でシダテの名前が出てきました。
丁度よい機会と思い彼女に同行を願い、シダテまで行くことにしました。

アムランの町外れに、遠方へ出かける客相手の土産食品を売る店が道に沿って沢山あります。その中にその娘さんの家族も出しており、帰りに寄ることを約してアムランを離れました。

アムランからの道は比較的余裕を持ってゆっくりと走れるトランススラウェシという名を彷彿するような道であり、安心して走れました。
8kmほど走ると右側にダンプの入り口らしい道があり、そこを入ります。
すぐに道は埃の立つ悪路になり、ゆっくり走るようになります。

まもなく視界が開け目の前に発電所の工事現場が現れました。
かなり大きな発電所自体にその敷地が加わり、港も完成に近くその威容はすごいものでした。
東ジャワのトゥバン近郊にも同じものがあったことを思い出しました。
日本のODAでそれは広大な土地に1990年代に建設し、その後の経済危機で日揮の職員が維持管理するためだけに常駐しておりました。その後どうなりましたか。

現在ミナハサのラヘンドンで日本の技術協力で地熱発電が行われていると聞きます。
もしこの発電所がその技術の大成であれば、無公害のそれは素晴らしいものであろうかと思います。

その工事現場の壁に沿って海岸に向かいます。
そしてセレベス独特の椰子の木がまったくない平地が現れました。

あった!!!!
無くしたものを探し出したときの感動に似ていた。

セレベス戦記によると、この飛行場は米軍に見つからないように隠し滑走路だけ建設したが、すぐに見
つかり、爆撃の対象となりかなりのダメージを受けていると記されてあった。
行軍の際も爆撃に会い命拾いしている。
そして滑走路は幅7〜80mあり3条の滑走路となっていたとも。
その行軍にはこの3〜4条の滑走路を横断するのだがその距離は5kmにも達したという。

これだけ大きな滑走路を連合軍は見逃すはずはなく、司令部の甘い考えを示しているかのようだった。
どこまでが滑走路なのだろうか。今になってはまったく分からない。
しかし真平らなのはよくわかる。

滑走路の東端と思われる場所に、温泉の沸く場所があり入り口にゲートがあり料金を徴収している。
広葉樹のような木が生い茂り木陰を作りその下で憩いを提供している。売店の商品を見なければ、昔の部落然としている。
残念なことは、インドネシアでなじみのプラスティクごみが散乱していることであろうか。
またその端の海岸にお湯の湧き出している砂地と千畳敷が広がる。

渚に湧き出る温泉は、兵士にいっときのくつろぎを、そして日本を思い出したのではないだろうか。
しかし本には温泉は記してない。命令で転戦していたのでそれどこではないのだろうか。
そして彼たち50人の奥村小隊はシダテ村で休息を取ったのであった。

兵士は日中は空襲を恐れ、夜行動しなければならなかった。
マリサまでの行軍は、ロダを使い食料を運んだがマリサからは20日分だけの食糧配給だけで残りの1500kmを命令され、死の行軍となることを示唆していた。

また途中の村からの略奪を厳しく禁止したため、多くの病人を出し行軍に支障をきたしている。
そして彼たちは行軍の途中昭和20年8月22日に敗戦を知り、その後もマリンプン捕虜収容所での空腹と病気の厳しい生き残り競争の体験をするのである。

この地は、インドネシアでも直接の戦闘のなかった特異な地である。しかし歴史に埋まれた表に出てない事実があるのも事実である。

この空港の地は、シダテ村モイニット(MOYNIT)にあった。

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