NPO 茨城インドネシア協会
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           椰子の葉そよぐ南の島で

         北スラウェシの日系人
まえがき
  昭和のはじめ、おおくの沖縄人が海外に職を求め飛び出していた。
そして伊平屋島の仲里幸吉もインドネシアへ出稼ぎに出た。
戦後、取り残された日本人の妻子たちは戦争の犠牲者として苦難の道を歩んだ。
これがインドネシア北スラウェシ州の日系人である。

もし戦争がなければ彼たちは間違いなく日本人であった。
日本政府は彼たちを戦争孤児として公式に認めてないが、入管法改正で彼たちを労働力として日本へ入れる施策だけでお茶を濁している。
彼たちに関わった者として、可能であれば日本政府の公式な調査を実施し、彼たちに対する多少の優遇措置を望むものである。
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男は漁船のデッキで夜空を見上げていた。仲里幸吉、23歳沖縄伊是名村生まれ。
彼は友人に誘われ職を求めインドネシアへ発った。母親一人を残した伊是名島を思い出していた。
母子家庭で育った幸吉は母親思いであったが、職を得られず、やむを得ず新天地を求めた。
伊是名の家の前浜からのサバニでの別れは、母親と永遠の別れとなるのだった。

父は伊平屋の出身で、仕事で伊是名に来て母と出会った。そして去った。幸吉は母の実家で厳格に祖父母に育てられた。
祖父は漁師であったが、年老いても漁に出て、糧を得ていた。隣の島の父は新しい家庭を築いていたが、幸吉は度々父親に会いに行った。遠慮しながらも物陰から父の姿を慕っていたのだった。また10歳のときに水疱瘡になりそのときの後遺症が顔に残ってしまった。

多くの友人が新天地を求め沖縄を去った。
沖縄は江戸時代まで琉球王国といわれ、江戸時代に薩摩藩に統治された。
産業といえばサトウキビ程度であり、幸吉も多くの沖縄人同様に、仕事を求め海外へ飛び出していった。
幸吉も、ヤマトンチュウ(本土人、大和人)の大岩に誘われた名嘉光栄に従い、南洋行きを決めた。

時はまさに世界恐慌後の昭和6年2月である。
この年9月に満州事変がおこり、満蒙開拓団に象徴されるように、政府主導であったが民間にも海外開拓の目が向きだしていた頃である。漁民を募集した大岩は、愛知県豊浜の出身で、大正10年ごろ南洋漁場に進出した江川俊治に思いをはせ、大正11年に渡航した際、南洋漁業に将来性を見出して、昭和6年に大岩漁業株式会社を興し、同時に南洋に進出した。
当初は造船業を経営し、徐々に経験をつみ近代的な経営を目指し、冷蔵施設等の建設により魚価の安定化に尽くした。 
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「おーい、島が見えるぞ」 セレベスだ。
薄暗い海上にうっすらと山影のシルエットが浮かび上がった。

幸吉を乗せた漁船は、当時最新鋭のディーゼルエンジンである。
200トンにも満たない漁船、大岩丸は豊浜から紀州を経て、島伝いに沖縄から台湾、フィリピンを経て、セレベス島を目指していた。
大岩は当時沖縄出身の漁民で構成されていた金城漁業組合が昭和6年経営難で引き上げるのを知り、失業する漁民を全員引き受けることを条件に権利を買い受けた。
そして良質の労働力を得た大岩は南洋に進出する機会を得たのであった。

沖縄の糸満の漁民は「イトマンチュウ」と呼ばれ、サバニを自由に操り追い込み漁(アミジケー)を得意とし、その能力は有名である。
現在でも多くの東南アジアの追い込み漁は彼たちの伝承であるといわれる。
薄明るい静けさを破るように、カカツアが騒いでいる。
そして、うっすらと浮かび上がっていた島影も大分はっきりと見える頃には、朝日が昇り始めていた。

沖縄出身の幸吉には、珍しくないが多くの椰子が生い茂り海岸にはマングローブが上陸を阻むように立ちはだかっている。
ここが「椰子の葉がそよぐ島」として有名な由縁でもある。

マングローブとは海岸、川岸に生育できる樹木の総称であり、特定な樹木の名前ではない。
砂浜のない海岸は、磯海岸を除き大概はマングローブで覆われており、海岸を浸食から守りながら、海老、小魚の「ゆりかご」でもある。
住民の居住と共に開発され東南アジアの海岸からマングローブは喪失し、それに伴い魚の漁獲量は減っている。
特にインドネシア産BT(ブラックタイガー)エビは一時陸上での淡水池養殖が盛んになっていたが、病気の蔓延から薬品の大量使用による薬品公害により、急速にしぼみ、得意先である日本から敬遠され、多くはインドへ養殖エビの供給地はシフトした。
しかし近年インドネシアでも自然を破壊した反省からマングローブの重要性を再認識し、自然な本来の姿を取り戻す植樹運動が盛んになり、ブラックタイガーエビの産地として再興した。

船は、レンベ海峡をゆっくり進んでいく。
右舷に見える陸地は、セレベス島(現スラウェシ島)で、左舷はレンベ島である。
海峡は幅500メートルで十分な水深もあり、大型船も航行でき、戦時中には島影に戦艦を隠せた絶好な場所でもあった。
当時のレンベ島は、今でこそリゾート、民家が点在するが当時は密林に覆われ、自然の宝庫であった。
ポルトガル人により発見された巨大な11mの網目ニシキヘビの記録のある処である。

間もなく、右舷側の小さな入り江に碇を下ろした。
入り江の奥にはバナナの葉で屋根を葺いた小屋が数軒みえた。
色黒のここの住民と思われる数名が海岸へ駆け寄る。
「 おーい、こっちだぞー」
日本人だった。
沖縄からの漁民が先に来ており、土地の開墾をしていたのだった。
小船で迎えが来た。「沖縄からのお土産はないかの。」 この地は、ケマからの道はない。
入り江になっているが、戦後20年して道が出来た。
現在は、ビトン水産高校の養成所となっている。
このようにして幸吉は、インドネシア国北スラウェシ州ビトンへ上陸、終戦まで定住するのであった。

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