NPO 茨城インドネシア協会
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お詫び 機械的転写のため多少誤字あります。ご留意ください
   
モジョケルト日記  (インドネシア医療奉仕の軌跡)     田村 久弥

                        今は亡き妻に捧げる       

この日記は、私が一九六四年から三年間、インドネシアのジャワ島・モジョケルト市に於いて、この国の人々のために医療協力を行った時の記録である。

 一九六四年(昭和三九年)という年は、今から三五年前、日本では新幹線が走り出し、東京オリンピックが開催され、これから世界に大きく発展しようとの意気込みが、国民の間に充ち充ちていた時である。

 一方、インドネシアは三五〇年もの間、オランダに占領されていて、太平洋戦争で一九四二年、日本軍が一時占領したが、その敗退と同時に、スカルノが独立を宣言した。そのあとオランダとの間に長く苦しい独立戦争を強いられ、一九四九年、国連の裁定により、やっと独立を正式に承認された。

私かこの国へ行ったのは、それから十五年しか経っておらず、この国が果たして自立して行けるか、どうかも定かならず、国内にはあらゆる矛盾と混乱が渦巻き、政治的にも、経済的にも大試練の時であった。国民生活はそのあおりをもろに受けて、極端な医師不足(殊に外科医)と薬剤の枯渇から、病人は街に見捨てられていた。

こうした時に私はレクソーワニト病院に赴任し、二十五粁離れたモジョワルノ病院と掛持ちしていたので、その救急手術の数は二倍となり、膨大な数に登った。医師不足、助産婦不足の結果、住民は分娩をドゥクン(祈祷師)にたのみ、分娩経過も分からぬ彼等は、産婦に無理な腹圧をかけて、子宮破裂をおこさせた。

 インドネシアは、いまや、先進工業国の仲間入りをして、G8と言われるようになった。首都ジャカルタは東京より立派である。
自動車の生産はもとより、日本にはない航空機の生産も始まっている。

スカルノ大統領のあとを継いだスハルト大統領は、いまになって、様々な批判はあるが、三十二年もの安定政権が続いたことが、この急速な発展を促した。彼の偉大な功績である。

 私はこのあと、カンボジア、ラオスにも行ったが、一九七三年再びインドネシアに戻り、北セレベスのトモホンで五年、更に一九八六年アムランのカロウラン病院で働いて、一九九四年に引揚げて来た。

私はこのモジョケルトで働き始めてから、すっかりインドネシアにのめり込んで、私の人生の大切な時代を、インドネシアの発展のために多少なりともお手伝い出来たことを光栄に思っている。

最愛の妻を天国に送って

わが妻、淑は一九九六年四月十五日、突然の心筋梗塞のため、 神のみもとに召された。七四才であった。
 この著作を執筆中であり、あと半年で金婚式を迎える事になっていたが果たせず心残りである。誰もその死を予測していなかったので、私の心の中にはぽっかりと穴が開いたようで、一時は唖然としてしまった。

私と妻は一九九四年十月にインドネシアから引き上げて来た。一九八六年から始めた北セレベス、アムランでのボランティアとしての医療協力は八年半にもなったが、その期間中、妻は極めて元気で私の仕事を助けてくれた。日本に帰ってから妻は、日本の気候風土が体に合わなかったのか、しばしば体の不調を訴えた。

 まずアトピー性皮膚炎に悩まされた。全身の皮膚に紅い発疹が出て、掻痒感が強く、殊に夜中はそのため不眠に陥った。何のきっかけもなく外耳炎が二度もおきたあげくの果て、帯状へルペスが左頚すじから左腕に出て、その激しい痛みのために鎮痛剤を日に数回服用した。

 そして、一九九六年三月一日、突然食欲がなくなり、嘔気嘔吐が始まった。私は医師として診察したが、腹部に異常はなく、次に高熱が出て、全身に紅い斑点が現れた。世田谷の関東中央病院に入院した。

紅節性紅斑と言われ、ステロイド療治を受けた。食欲も出て来て、熱も下がり、元気になっていつ退院出来るかな、と思っていた矢先、四月十四日、夜半に第一回の心筋梗塞をおこした。すぐに応急処置が施され、翌十五日に私か見舞いに行った時は、一見、あまり重症らしくなかったが、その深夜、第二回目の発作が来て、あっと言う間に昇天した。

その前に時々取った心電図には異常がなかったので、主治医さえもその急変を予測できず、まことにあっけない幕切れであった。私は大声をあげて泣きたい。

 妻は私にとって本当にかけがいのない私の半身であった。海外医療協力という難しい仕事は、妻の協力がなければ出来ない仕事であった。妻はそれを忠実に勤めてくれた。妻はその天性の朗らかさで回りの人を楽しくさせ、誰とでもすぐに親しい友達となった。

 妻と共に歩んだ戦後の五十年を思い出すまゝに綴って見たい。

 わが妻、多鹿淑は大正十年六月二八日横浜で生まれた。父は多鹿茂雄、東京商大二橋大学)を出て、大倉商事に入り重役をしていた。母ときは神奈川、川和の五代続いた医家の娘であった。淑はフェリス女学院に入り、一家が東京に移り住んでからも通い続け、そこを卒業し、更に白金の聖心の語学校に行っていた。

 私は東京第一陸軍病院で勤務中に結婚しておいた方がよいと思い、下宿していた友常千勢女史に適当な候補者の推薦をお願いした。彼女が薦めて下さったのは同じ田園調布教会の会員である多鹿淑であった。

私は自分の主観だけでなく、同じ女性の立場から、世の中の酸いも甘いも噛み分けたこの世の知恵で計って、この人なら間違いないという人と結婚したかった。

私は彼女の姿を教会で遠くから見かけたことはあったが、親しく言葉を交わしたことはなかった。そこで彼女の家へ行き、互いに意見を述べ合って、それで承知ならば話を進めようということになった。お見合いである。

 その日、私か彼女に話した事は、私は将来、医師として世に出るが、私か念願していることは、この世で最も医療に恵まれない所へ行って医療活動をしたい。それには多くの困難が伴うが、それでよければ結婚したい。
例えば中国の奥地とか、フイリッピンの山の中にいるかも知れない。そこへついて来て下さる覚悟があれば嬉しい、と話した。彼女はそれでも喜んでついて行きますと約束してくれた。

 それで婚約が成立した。そのあと、私の動員が発令された。多鹿の両親はそれでも婚約式を済ませたあと出征してほしいとの申出で、昭和十七年五月九日に田園調布教会で岡田牧師司式の許に行われた。

 その後すぐ私は宇品から輸送船に乗り、韓国経由、中国の常州に赴任した。中国滞在中は音信はわりに自由に出来たが、南方へ転戦してからは軍事郵便も出せなくて、生きているか、死んでいるのか分からない時期が四年も続いた。彼女は毎日、私の無事を神に祈るより他なかった。
 二十一年六月七日ヽ私は浦賀に復員上陸して、ひょっこり、全く突然何の前触れもなく彼女の前に姿を現した。みすぼらしい敗残兵の姿であった。
 マラリヤにょる貧血と栄養不足で痩せこけていた。

 結婚するにはヽまず体力の回復が先決であった。私は京都府の宮津市に家族がいたので、そこへ身を寄せてヽ親戚から米などをもらって食べることから始めた。鉄道を使って米を運ぼうとして、食料統制法に引っかゝり、警察に捕まったこともあった。

 結婚式はこの年の十月五日、田園調布教会で挙げた。新婚旅行に行ける身分ではなかったが、多鹿の父が戦後ヽ大成建設に移っていて、会社の保養施設、箱根・塔ノ沢の温泉寮を特別に手配してくれてヽ配給米持参で三日間泊めてもらった・
私はキリスト教徒として、自分の妻以外の女性とは性交渉はすまいと思っていたので、その時までは童貞であった。婦人科医として女性を診察することはあったが・…

私は戦争中の医学の遅れを取り戻すために、石川正臣教授の御指導を仰ぎ、大学の医局に入れていただき、九月から飯田橋の第一医院へ通っていた。毎日妻が昼の弁当を持たせてくれた。
結婚後も私は多鹿の家の二階に間借りをさせてもらった。他に行く所はなかった。大学は無給医局員で、貯金は1ヵ月に五百円しか下ろすことが出来ぬ不自由な生活であった。いわゆるアルバイトの口もなく、新婚生活は極めて苦しかった。

筍生活とよくいわれた。自分達の衣類を田舎の農家に持参して、なにがしの食糧に換える。二一年の日本全体の米が足りなくて、何百万人の餓死者が出るだろうと言われていた。共産党は米よこせデモを行い、天皇陛下に向けて「朕は鱈腹食っている。汝臣民飢えて死ね。」と宣伝した。

GHQ司令官マッカーサー元帥も事態を深刻に受け止めて、大量の食糧を放出してくれ、危機は回避された。
配給品には米は来なくて、とうもろこしや吉豆の粉が来て、これでパンを焼く特別のパン焼き器を自家製で造ったものだった。
たまに米の配給があっても籾だったので、一升瓶に入れて竹の棒で脱穀せねばならなかった。



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